「ピョートル・チャイコフスキー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
32行目:
[[1865年]]12月には、ペテルブルク音楽院を卒業し、[[1866年]]1月に[[モスクワ]]へ転居し、帝室ロシア音楽協会モスクワ支部で教鞭をとる。この支部からは同年9月にアントン・ルビンシテインの弟、[[ニコライ・ルビンシテイン|ニコライ]]が[[モスクワ音楽院]]を創設し、チャイコフスキーはそこに理論講師として招かれ、以後12年間ここで教鞭を取ることとなった。またこれ以降、チャイコフスキーはモスクワを活動拠点とするようになり、音楽院辞職後もチャイコフスキーはモスクワおよびその近辺にとどまることが多かった。この年、[[交響曲第1番 (チャイコフスキー)|交響曲第1番『冬の日の幻想』]](作品13)の初演があり、また初のオペラである『地方長官』を完成させた。[[1868年]]には、サンクトペテルブルクでロシア民族楽派の作曲家たち、いわゆる[[ロシア5人組]]([[ミリイ・バラキレフ]]、[[ツェーザリ・キュイ]]、[[モデスト・ムソルグスキー]]、[[アレクサンドル・ボロディン]]、[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]])と知り合い、交友を結ぶ。チャイコフスキーは彼らの音楽とはある程度距離をとったものの、こののちチャイコフスキーの音楽には時にロシア風の影響が現れるようになった<ref>ロバート・ジーグラー、スミソニアン協会監修 『世界の音楽大図鑑』 金澤正剛日本語版監修、河出書房新社、2014年10月30日初版発行、182頁。</ref>。同年、オペラ歌手デジレ・アルトーと恋に落ち、毎晩、彼女の元へ通うようになる。このことが誰の目にも明らかになり、自分の父親に結婚したい旨を手紙で書き送る。婚約にまで至るが翌年破局した。
 
[[1875年]]、[[ピアノ協奏曲第1番 (チャイコフスキー)|ピアノ協奏曲第1番]](作品23)を作曲。初演を依頼したニコライ・ルビンシテインの酷評を受け、[[ハンス・フォン・ビューロー]]に楽譜を送る。ビューローによる初演は大成功し、ヨーロッパの各都市で演奏された。ニコライはチャイコフスキーに謝罪し、自らもこの曲を演奏するようになった。[[1876年]]、富豪の未亡人[[ナジェジダ・フォン・メック]]から資金援助を申し出られる。チャイコフスキーとの間には頻繁に手紙が交わされたが、2人が会うことは一度もないまま、この交際は14年間にわたって続いた。このころ作曲された[[交響曲第4番 (チャイコフスキー)|交響曲第4番]](作品36)はフォン・メック夫人に捧げられた。また[[レフ・トルストイ|トルストイ]]とも知り合う。[[1877年]]には[[アントニーナ・ミリューコヴァ|アントニナ・イワノヴナ]]と結婚したものの、この結婚は失敗し、チャイコフスキーは[[モスクワ川]]で自殺を図るほど精神的に追い詰められた。この年、バレエ『[[白鳥の湖]]』が完成し、オペラ『[[エフゲニー・オネーギン (オペラ)|エフゲニー・オネーギン]]』も完成している。
 
[[1878年]]10月、作曲に専念するために12年間勤めたモスクワ音楽院講師を辞職する。それから約10年間、[[フィレンツェ]]や[[パリ]]、[[ナポリ]]やカーメンカなどヨーロッパ周辺を転々とし、大作から遠ざかる。1880年には『[[弦楽セレナーデ (チャイコフスキー)|弦楽セレナード]]』(作品48)、[[1812年 (序曲)|大序曲『1812年』]](作品49)が書かれた。同年、父イリヤが84歳で死去する。[[1881年]]には友人ニコライ・ルビンシテインが死去し、彼の死を悼んで[[ピアノ三重奏曲 (チャイコフスキー)|ピアノ三重奏曲]](作品50)の作曲に着手する。翌年完成し、ニコライの一周忌に初演した。原稿には "A la mémoire d'un grand artiste"(ある偉大な芸術家の思い出のために)と書かれていた。[[1885年]]、[[マンフレッド交響曲]]が完成した。同年2月、モスクワ郊外のマイダノヴォ村に家を借り、旅暮らしに終止符を打った。以後死までの間、フロロフスコエやクリンといった近郊の街へと転居を繰り返したものの、この一帯に住みつづけた。[[1888年]]には[[交響曲第5番 (チャイコフスキー)|交響曲第5番]](作品64)や、バレエ『[[眠れる森の美女 (チャイコフスキー)|眠れる森の美女]]』(作品66)が完成した。この年と翌[[1889年]]はヨーロッパ各地で自作の演奏も行う。この際ライプツィヒで、かつての恋人デジレ・アルトーと旧交を温める。1888年4月にはフロロフスコエに転居した。[[1890年]]、フォン・メック夫人から財政援助を打ち切られ、チャイコフスキーは大きな打撃を受けた<ref name="s"/>。[[1891年]]、バレエ『[[くるみ割り人形]]』(作品71)作曲。アメリカに旅行し、[[カーネギー・ホール]]のこけら落としに出演した。[[1892年]]4月に[[クリン (モスクワ州)|クリン]]へと転居し、ここが最後の住居となる。1893年5月にはケンブリッジ大学音楽協会から、[[カミーユ・サン=サーンス]]や[[マックス・ブルッフ]]、[[エドヴァルド・グリーグ]]らとともに名誉博士号を授与される<ref>[[伊藤恵子]] 『チャイコフスキー』 音楽之友社、2005年、172頁。</ref>。