「今村均」の版間の差分

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しかし、この被害で今村の部隊は、第1次上陸部隊の揚陸後で死者は100名に抑えられたものの、遠距離用無線機や暗号表は海没しジャワ島中中部・東部に上陸した別働隊への直接指揮が5日もの間不能となるなど多大な損害を被った。
 
占領後、今村は蘭印地域の管理を行った。今村によるジャワ軍政について、「現在でもインドネシアの歴史教科書にも掲載されて評価を受けている」と一部する主張が日本まことしやかに言われているが、日本軍政に対する厳しい評価をするインドネシアの歴史教科書は、そのような記述は存在しない<ref>{{Cite book|author=スロト|title=全訳世界の歴史教科書シリーズ32 インドネシア その人々の歴史|date=1983.4.1|year=|accessdate=|publisher=帝国書院|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref><ref>{{Cite book|author=越田僚|title=アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編|date=1990.4.25|year=|accessdate=|publisher=梨の木舎|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>
ただし、インドネシア軍政の初期に様々な住民宣撫や独立運動に対する理解などはスカルノや独立運動に関わったインドネシアの兵士などから評価されており、今村離任後の日本軍の様々な悪評とは好対照となっている<ref name=":0" />。
 
[[オランダ]]によって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、[[スカルノ]]と[[ハッタ]]ら政治犯を解放し資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の[[官吏]]登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した[[製油所|石油精製施設]]を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であった[[オランダ人]]についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、[[捕虜]]となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行った。
また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌「[[インドネシア・ラヤ]]」が、[[ジャワ島]]で盛んに歌われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれた。
 
しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり、[[1942年]]([[昭和]]17年)3月には今村とは親しい仲である[[参謀総長]]・[[杉山元]]が直々に[[バタビア]]に出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している。この時杉山から「[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|バターン攻略]]に難航した本間雅晴軍司令官を[[大本営]]は更迭する予定である」と聞かされた際に、今村は杉山に対し「バターン攻略の難航は大本営の認識・指導不足に因るところが多く、兵力不足の状態でバターン占領を急かされてしまった不遇の本間にのみ責任を被せるというのは酷すぎる。」と大本営を鋭く批判し、本間を強くかばい杉山をある程度軟化させた。また、[[陸軍省]][[軍務局]]長の[[武藤章]]、人事局長の[[富永恭次]]も今村に対し、ジャワ島でも[[シンガポール]]同様に強圧的な政策に転換するよう求めたが、今村は陸軍が布告した『占領地統治要綱』から「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一節をひいて、要綱を改正する前に自分を免職するよう求め、軍政の方針を変えることに抵抗した。後任の[[原田熊吉]][[中将]]は今村とは逆に、強圧的な統治を行ったため、ジャワでは抗日ゲリラの動きが活発になったとする意見もある
だし、インドネシア軍政の初期に様々な住民宣撫や独立運動に対する理解などはスカルノや独立運動に関わったインドネシアの兵士などから評価されており、今村離任後の日本軍の様々な悪評とは好対照となっているとする意見もある<ref name=":0" />。
 
==== 第八方面軍司令官 ====
[[1942年]](昭和17年)11月20日、[[第8方面軍 (日本軍)|第8方面軍]]司令官として[[ニューブリテン島]]に位置する[[ラバウル]]に着任した。ラバウルへの赴任前にシンガポールで離陸時に乗機が墜落している<ref name=":0" />。今村と[[山本五十六]]海軍[[大将]]は[[佐官]]時代から親交があり、今村着任時の夕食会で山本は「大本営がラバウルの陸海共同作戦を担当する司令官が君(今村)だと聞いた時は、誰だか同じ様なものの何だか安心なような気がした。遠慮や気兼ね無しに話し合えるからな」と陸海軍の側近らの前で話した。そのため今村は山本が戦死した際には泣いて悲しんだという。今村もラバウルに着任後、山本が戦死する直前に海軍の[[一式陸上攻撃機]]に搭乗し、前線の陸軍部隊の視察を行なった際、アメリカ軍戦闘機に襲撃されそうになったが難を逃れている
 
左遷に近いものであり、これは杉山参謀総長の叱責がその遠因でないかという説もある。後任の[[原田熊吉]][[中将]]は今村とは逆に、強圧的な統治を行ったため、ジャワでは抗日ゲリラの動きが活発になった。のち、[[山本五十六]]海軍[[大将]]と会見している。今村と山本は[[佐官]]時代から親交があり、互いに気兼ねなく腹を割って話し合える程の仲であり、双方認め合っていたといわれる。今村着任時の夕食会で「大本営がラバウルの陸海共同作戦を担当する司令官が君(今村)だと聞いた時は、誰だか同じ様なものの何だか安心なような気がした。遠慮や気兼ね無しに話し合えるからな」と陸海軍の側近らの前で話した。そのため山本が戦死した際には泣いて悲しんだという。今村本人もラバウルに着任後、山本が戦死する直前に海軍の[[一式陸上攻撃機]]に搭乗し、前線の陸軍部隊の視察を行なった際、アメリカ軍戦闘機に襲撃されそうになったが難を逃れている。
 
[[1943年]](昭和18年)初頭、米軍はガダルカナルと東部ニューギニアから日本軍を駆逐しラバウル作戦の「第一任務」を完了した。米軍はさらにソロモン諸島とニューギニアの双方から前進する「第二任務」の準備に入った。これに対し日本軍はラバウルの防衛線をソロモン諸島のニュージョージアのムンダ岬の航空基地とニューギニアのサラマウアを結ぶ線とした。防衛部隊の海軍側の指揮官は[[草鹿任一]]中将、陸軍側が今村大将であった。
 
ラバウル無力化のために、米海軍はソロモン諸島を占領後、ビスマルク諸島の日本軍航空兵力、主にラバウルに猛爆を加えた。第8方面軍経理部部員だった主計大尉によれば、敵機の数は1944年1月2979機、2月2732機。さらに[[1944年]](昭和19年)2月中旬、日本艦隊の根拠地トラック島を空襲した結果、日本海軍の古賀連合艦隊司令長官はラバウルの海軍機を撤退させたため、ラバウルの米軍への積極的な脅威はほぼなくなった。しかし米軍はラバウル封鎖を完成させるために活動した。先ずラバウルの東方のグリーン島を占領し航空基地を設営しビスマルク諸島全体で戦闘機の活動を可能にし、次に陸軍の[[ダグラス・マッカーサー]]将軍はアドミラルティ諸島の東端のロス・ネグロス島を占領し航空基地を確保した。さらに海軍がカヴィェン北西のエミウラ島を占領して、ラバウルの無力化は完成した。
これらの為に米軍が失った兵力は300名程度であった<ref>C.Wニミッツ著『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社 p196</ref>。
こうして、ラバウル守備隊は孤立化したが既に現地自活可能な体制が完成しており、かつ物資も備蓄していたために、今村以下の第8方面軍は草鹿中将以下の[[南東方面艦隊]]と共に[[日本の降伏|終戦]]までラバウルを確保した。
 
自衛隊で[[陸将補]]となった[[冨澤暉]]は、今村から「ラバウルのことが一段落した後、責任を取って自決しようとしたが薬が古くなっていて死ねなかった。」との証言を聞いたと話している<ref>『文藝春秋』2014年12月号「巻頭随筆」</ref>。
 
=== 戦後 ===
[[File:Imamura Hitoshi.JPG|thumb|170px|1955年]]
[[1945年]](昭和20年)8月15日、日本が降伏し[[第二次世界大戦]]は終結。今村は戦争指導者([[戦犯]])として軍法会議にかけられる。第8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判では、一度は死刑にされかけたが、現地住民などの証言などもあり禁錮10年で判決が確定した
自衛隊で[[陸将補冨澤暉]]となった[[冨澤暉陸将補]]は、戦後今村から「ラバウルのことが一段落した後、責任を取って自決しようとしたが薬が古くなっていて死ねなかった。」との証言を聞いたと話して<ref>『文藝春秋』2014年12月号「巻頭随筆」</ref>。
その後の第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされた。
 
その後、今村戦争犯罪裁判で、不法行為に対する監督責任でBC級戦争犯罪の容疑がかかった。ラバウルで行われたオーストラリア軍事裁判で禁錮10年の有罪判決。ジャカルタで行われたオランダ軍事裁判では死刑が求刑されたが、証拠不十分で無罪。今村によれば、オーストラリア軍の有罪判決により、[[1949年]](昭和24年)に米豪蘭の合議で[[巣鴨拘置所]]に送られた。だが今村は「(未だに環境の悪い南方で服役をている元渡されたが、部下たちの事を考える)自分だけ東京にいるこはできない」として、[[1950年]](昭和25年)は自ら多数の日本軍将兵が収容されている[[マヌス島]]刑務所への入所で服役すること希望した。妻を通[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]司令官マッカーサーに直訴し認められたといわれている今村態度申し出にマッカーサーは、「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の[[武士道]]に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言ったとする説もある。1950年3月から1953年8月までマヌス島豪軍刑務所に服役したが、刑務所の廃止に伴、他の日本人受刑者とともに巣鴨に移管され、1954年1月に刑期満了で出所。入獄中から執筆を開始し、出獄4年後に『今村均回顧録』を完成させている
 
[[1955年]](昭和30年)9月24日、[[防衛省|防衛庁]]顧問に就任している<ref>[[朝日新聞]] 昭和30年(1955年) 9月24日</ref>。
その一方で、出所、刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、戦争の責任を反省し、[[軍人恩給]]だけの質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版し、その[[印税]]はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いられた。て、元部下に対して今村は出来る限りの援助を施し、それは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せざるを得なかったことに対する贖罪の意識からの行動であったといわれる。り、その行動につけこんで元部下を騙って無心をする者もいたが、それに対しても今村は騙されていると承知しても敢えて拒みはしなかったというする意見もある
 
[[国立国会図書館]][[憲政資料室]]に、今村の肉声を伝える「回想談話録音」が残されている。
 
[[1955年]](昭和30年)9月24日、[[防衛省|防衛庁]]顧問に就任している<ref>[[朝日新聞]] 昭和30年(1955年) 9月24日</ref>。
 
[[1968年]](昭和43年)10月4日、死去。享年82。墓は仙台市の[[輪王寺 (仙台市)|輪王寺]]にある。
 
== 人物 ==
[[指揮官]]としての[[戦術]]面では、実戦を指揮したのが[[支那事変]]、ジャワ攻略戦とそれに付随する戦闘のみであり、ラバウルでは殆ど戦闘が行われずアメリカ軍と本格的に戦火を交える事はなかった。しかし第5師団長として指揮を執った[[南寧作戦]]では、[[近衛師団]]と[[第18師団 (日本軍)|第18師団]]の援軍が到着するまでの数十日間、[[蒋介石]]直系の精鋭部隊を含む数十倍の戦力を有した中国[[国民革命軍|国民党軍]]の大攻勢を、物資不足と炎熱下の劣悪な環境ながら防ぎきる事に成功し、蘭印作戦では極めて短期でインドネシアを攻略している。今村の軍人としての能力、特に軍政面や占領地住民・部下将兵に対しての人道的な対応については後世の評価はほぼ一致している。蘭印無条件降伏を報じる[[1942年]](昭和17年)3月10日([[陸軍記念日]])付の[[読売新聞]]記事では、写真付きで蘭印方面陸軍最高指揮官たる今村の略歴も紹介されており、「今村将軍は仙台の士族で陸大を首席で卒業した秀才、だがその才気と不屈の闘志を温容に包む近代的武将である」、「教養に富み部下を愛する謙虚な風格ある将軍である」「人情将軍今村中将」と評されている。
[[漫画家]]の[[水木しげる]]は、兵役でラバウルに居た際に視察に来た今村から言葉をかけられたことがある。その時の印象について水木は「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評している<ref>水木しげる「カランコロン漂泊記」[[小学館文庫]]</ref>。
 
[[指揮官]]としては実戦を指揮したのが[[支那事変]]、ジャワ攻略戦とそれに付随する戦闘のみであり、ラバウルでは殆ど戦闘が行われずアメリカ軍と本格的に戦火を交える事はなかった。しかし第5師団長として指揮を執った[[南寧作戦]]では、[[近衛師団]]と[[第18師団 (日本軍)|第18師団]]の援軍が到着するまでの数十日間、[[蒋介石]]直系の精鋭部隊を含む数十倍の戦力を有した中国[[国民革命軍|国民党軍]]の大攻勢を、物資不足と炎熱下の劣悪な環境ながら防ぎきる事に成功し、蘭印作戦では極めて短期でインドネシアを攻略している。
[[戦略]]面では、ラバウルでの[[持久戦]]が示すとおり、のように先を読んで対策を行う能力に優れていた人物であったことは確かで、終戦まで将兵の命を守ったことから、日本軍の優れた指揮官としての評価は高いする意見もある。部下に非常に慕われる人柄であったため、統率に関してはしっかり取れていた。今村は部下を愛し、現地住民を愛したと言われそれに対して部下、現地住民は絶大な親しみを寄せていたといわれする意見もある。今村が戦後連合軍に囚われた際、スカルノを指導者とするインドネシア独立軍による救出作戦の計画があり(今村本人が謝絶)、現地住民の多くは裁判で今村を擁護した。また今村は部下の裁判に率先して弁護に赴いては「戦時中の全ての責任は自分にある。部下には責任は全く無い」旨の証言を繰り返して部下を擁護し、それにより刑が減軽されたり無罪になった部下も多かったとする意見もある
 
[[漫画家]]の[[水木しげる]]は、兵役でラバウルに居た際に視察に来た今村から言葉をかけられたことがある。その時の印象について水木は「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評している<ref>水木しげる「カランコロン漂泊記」[[小学館文庫]]</ref>。
 
9歳まで[[夜尿症]]を患っていた今村は、青年期になっても夜に何度も便所に立つことから来る睡眠不足に苦しんでいた。夜尿の傾向はその後も続き、それに伴う睡眠不足に生涯悩まされることになる。そのため講義中の居眠りを度々してしまい、そのたび教官に怒鳴られていた。[[軍医]]や同期生に相談したり、睡魔が襲ってきた時に小刃で自分を軽く突くなど対策したものの一向に治らず、野外[[演習]]中に農家から貰った唐辛子を講義中にこっそり噛む事で何とか眠気覚ましにした。これに気付いた理解ある教官達は、それ以降今村に対しては居眠りを注意しなくなった。陸軍大学校卒業後、しばらくして今村自身が当時の岩尾教官に会い、事を尋ねてみると「(教官の集まりにおいて)あそこまで居眠りをしてしまっているものの、成績はすこぶる良く本人も寝たくて寝たいわけではなさそうだ、もしかしたら何か病気持ちなのだろう。という結論に達して特に叱る事はしなくなった」と事の真相を教えられ、今村は教官達に感謝したという。[[陸軍大学校]]でも居眠りを繰り返したが、士官学校時代の話は陸大の教官にも伝わっていたらしくそれほど厳しい説教を受けることもなかった。
*1968年(昭和43年)10月4日 - 死去。{{没年齢|1886|6|28|1968|10|4}}。
 
== 著 ==
*『今村均回顧録』(正・続、芙蓉書房出版、新版1993年)
**新版『幽囚回顧録』産経新聞出版、2010年/中公文庫、2019年
*『回想談話録音』- [[国立国会図書館]][[憲政資料室]]に保存された今村の肉声証言。
*:入獄中に書き始め、出獄し4年後に完成させた。
 
== 脚注 ==
 
== 参考文献 ==
 
* {{Citation|和書|title=今村均回顧録|year=1993|last=今村|first=均|authorlink=|series=|edition=|publisher=[[芙蓉書房出版]]|isbn=}}
 
* {{Citation|和書|title=歴代陸軍大将全覧 昭和編/太平洋戦争期|year=2013|last=半藤|first=一利 他|authorlink=半藤一利|series=|edition=[[Amazon Kindle]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=}}