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[[建安 (漢)|建安]]元年([[196年]])、飢饉に遭ったため同郷の[[孟達]]と共に[[益州]][[牧]]の[[劉璋]]に身を寄せた。久しくして劉璋の下では新都[[県令]]や軍議[[校尉]]に就いた。任用されず、又たその州邑人で倶に僑客となっていた者に節行の無さを誹謗された。
 
その後、かねてから「劉璋では大事を成せない」と考えていた法正は、親友の[[張松]]と共に劉備の益州攻略に協力することにした。法正は張松と共に劉璋に進言し、[[曹操]]と断交させ劉備と盟約を結ばせた。さらに[[張魯]]の脅威を利用して劉璋を再び動かし、劉備の下に使者として赴き、密かに自身や張松と協力して、劉備に益州へ入るよう勧めた。個人的に親しかった[[彭ヨウ|彭羕]]が劉備への仕官を求めてきた際には、[[ホウ統|龐統]]と共にこれを推挙している(『蜀書』彭羕伝)。その後、[[鄭度]]が劉璋に対し焦土作戦を進言したと聞いた劉備が、どう対処すべきかこれを法正に相談すると、法正は劉璋にはその作戦が実行できないと予測し、降伏を勧告する手紙を劉璋に送った。同19年([[214年]])に[[成都]]が包囲されると、劉璋はまもなく降伏した。
 
劉備が益州の支配に成功すると、その功績により[[蜀郡]][[太守]]<ref>『[[蜀書]]』先主伝の引く『三輔決録注』によると、劉備が劉璋にとって代わった際に射堅([[皇甫嵩]]の娘婿である射援の兄)が[[広漢郡|広漢]]・蜀郡太守に任命されたとある。</ref>・揚武将軍に任じられ、中央の政治に[[諸葛亮]]と共にあたるとともに<ref>諸葛亮と法正は、[[劉巴]]・[[伊籍]]・[[李厳]]と共に『蜀科』を起草している(『蜀書』伊籍伝)。</ref>、劉備の策謀相談役となった(『蜀書』先主伝)。元の蜀郡太守であった[[許靖]]は、劉璋が敗北しそうになると劉備への投降を図ったことから、劉備に疎まれていた。しかし名声の高い人物であったため、法正はその虚名<ref>法正は許靖を虚名のみの人物であると劉備に語った。</ref>を利用するよう勧めた。またこののち、[[孫夫人]]から離縁された劉備に呉氏([[呉懿]]の妹、後の[[穆皇后]])を娶るよう説得している。