「張邈」の版間の差分

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張邈の裏切りは、こうした曹操の信頼に対する痛烈なしっぺ返しである。また、曹操自身、張邈と袁紹の間に立たされた事で、袁紹との関係を悪化させていた。これに、呂布の抱えていた旗本、曹操の閣僚の一人でもあった陳宮の裏切り、など、張邈軍の反乱には、有利になる条件が決断した時点で揃っていた。
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張邈と呂布は、短期間で曹操の本拠地である兗州の大半を占領した。また、急報を聞きつけ引き返して来た曹操軍を、返り討ちにする事にも成功した。しかし、[[荀彧]]・[[程イク|程昱]]・[[夏侯惇]]・[[棗祗]]らが守る3城だけは落とせず、曹操の勢力にとどめを刺す事が出来なかった。その後、飢饉が発生したため、両者の争いは一時的に中断された。
 
翌2年(195年)には、勢いを盛り返した曹操に敗れ、兗州から撤退。呂布や陳宮らは、陶謙から徐州を譲り受けていた[[劉備]]を頼って落ち延びた。張邈は、陳留に居た弟らと分断されていたため、陳留の一族を救出しようと[[袁術]]に援軍を求めに向かったが、部下の裏切りに遭い殺されてしまった。前後して陳留は陥落し、張超など張邈の遺族は、曹操の追及を逃れて[[杞県|雍丘]]に移った。因みにこの頃、既に曹操が長安の[[天子]]から正式な兗州牧に任命されていたため(武帝紀)、張邈たちは賊の立場に追い込まれていた。
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