「モーリス・ルブラン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
微修正
編集の要約なし
26行目:
== 生涯・人物 ==
===生い立ち===
[[フランス]]・[[ノルマンディー]]の地方都市[[ルーアン]]市内フォントネル通り2番地で第二子(長子は年子で長女のジョアンヌ)に次いで生まれる。父エミール・ルブランは海運と石炭卸売とを主業とするブルジョア階級の実業家であった。分娩に立ち会ったのは、ルブラン家のかかりつけの医師で、[[ギュスターヴ・フローベール|フローベール]]の兄、アシル・フローベールであった(後にパリの文壇でモーリス・ルブランがこの事実を自慢することになる<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–''. Séguier, 1993. フローベール家とは遠い親戚でもある。これは母方の大伯母ゼリー・トルカZélie Torcatが、フローベール兄弟の父、アシル=クレオファス・フローベールと従兄弟関係にある、アマン=アドルフ・カンブルメAmand-Adolphe Cambremerと結婚しているから。</ref>)。[[1870年]]12月、[[普仏戦争]]のため[[スコットランド]]に疎開するものの翌[[1871年]]の7月までに(当時まだ[[プロシア]]の占領下にあった)ルーアンへと呼び戻されている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 [[ジャック・ドゥルワール]]著 [[小林佐江子]]・[[相磯佳正]]訳 [[2019年]]9月24日初版発行 [[国書刊行会]] P14-15</ref>。[[1873年]]10月よりジャンヌ・ダルク大通りのガストン・パトリ寄宿学校で初等教育を受けた後、同校に通学生として籍を置いたまま[[1875年]]から地元の「グラン・リセ」こと[https://en.wikipedia.org/wiki/Lyc%C3%A9e_Pierre-Corneille {{仮リンク|コルネイユ高等学校]|fr|Lyc%C3%A9e_Pierre-Corneille}}に入学。しばしば表彰を受けるほどの優等生でありながらリセの厳格な空気を嫌っていたことを後に自叙伝小説「L'Enthousiasme([[1901年]])」の中で回顧している。[[1879年]]の夏には当時チェーン式が発明されたばかりの[[自転車]]を入手し、壮年期以降も[[サイクリング]]に傾倒するようになる。この当時のルブランは「神経質なほど感受性が強く、会話の際には時折[[チック]]の症状を示していた」と、実妹[[ジョルジェット・ルブラン]]の「回想録([[1931年]])」中では記述されている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P39</ref>。[[1881年]]7月27~28日に文系[[バカロレア_(フランス)|バカロレア]]の第一部試験を受け「可」の成績で合格、最終学年である「哲学級」に進学する。最終学年では特に人間心理の分析を嗜好し、この時の勉学が後々の作品群に多大な影響を及ぼすこととなる。[[1882年]]8月、文系バカロレアの第二部試験と数学・物理・自然科学の試験に「可」の成績で合格、グラン・リセを卒業する。その後、父エミールの要望により英語を学ぶため[[マンチェスター]]に一年間滞在。しかし[[1883年]]には自らフランスに戻り、11月5日にルーアン市庁舎で「条件付き兵役(1500フランを納入することで、本来5年の期間を一年に短縮できた)」に志願している。同年11月12日、[[ヴェルサイユ]]旧王立厩舎内の第11連隊(砲兵)に配属、翌[[1884年]]11月12日には[[予備役]]編入(条件付き兵役のため、正式な予備役編入は[[1888年]]11月8日付となる)までの待命予備期間(事実上の復員)となり、ルーアンに帰郷した。後年、このイギリス居住と兵役の期間について、ルブランは「L'Enthousiasme」で「『この二年間、私は不幸だった』と率直に言うことができるだろう」<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P49</ref>と述懐している。<br>
帰郷後の彼はこの二年の反動のごとく遊蕩に明け暮れた。劇場や居酒屋に足繁く通い、[[ビリヤード]]や[[葉巻]]の[[喫煙]]、[[飲酒]]や[[買春]]が毎日の生活の一部となった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P50-51</ref>。旅行にも興味を示し、[[ラクロワ]]島を訪れたり、サイクリングで「フランス全土を踏破」<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P50</ref>したりしたのもこの頃である。これらについてルブランは「決められた仕事に無理矢理就かせられたり、何らかの制限を設けられたりするという考えが、私には突然、耐えられなくなった」と「L'Enthousiasme」にて回想している<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P50</ref>。一方で、後の代表作「[[奇巌城]]」はこの頃訪れた[[エトルタ]]の情景が源流となっている。だが、[[1885年]]1月27日、敬愛する母ブランシュが41歳の若さで逝去し、その遺産相続にともなう親権解除のため、彼は就職せねばならなくなった。父の伝手により将来的に共同経営者となるべくルイ・ミルド=ビシャールが所有する機械式梳毛(そもう)工場に勤務することになったものの、これはルブランにはまったく関心をもたらさない仕事であり、そこから逃避する手段として、ルブランは小説の執筆を始めた<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P56</ref>。<!-- ロースクールを落第後、 -->
 
 
===パリへ、そして職業作家へ===
当時、ルブランはある恋愛ごとで後ろ指をさされ、ルーアンに居づらくなっていた<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P58</ref>。一方で、しばしば訪れていた[[パリ]]では一歳年下の寡婦マリー・ラランヌと知り合い、恋愛関係を結ぶに至っていた。田舎に耐えられなくなり、文学的成功も夢見ていたルブランは、ロー・スクールへの通学を口実として[[1888年]]の末にパリの[[モンマルトル]]のカレ6番地へと居を移す。生活資金は[[1891年]]に全額支払われる予定であった母親の遺産がら捻出され、1888年12月29日には父より2万フラン、[[1889年]]から[[1890年]]の間には約7万フランを受け取っている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P61</ref>。1889年1月10日、マリー・ラランヌと結婚。ただし当時の風潮から結婚式は行わなかった。またこの頃、「文芸酒場」として名を成し始めていた[[キャバレー]]「黒猫(シャ・ノワール)」に足繁く足を運び、[[ルネ・モロ]]や[https://en.wikipedia.org/wiki/Maurice_Donnay {{仮リンク|モーリス・ドネー]|en|Maurice_Donnay}}等多くの文人・芸術家たちと交友した。結婚後、しばらくルブランは[[ノルマンディ]]を中心とした生活を送った。兵役の再訓練は、妻マリーの妊娠を口実に1890年の秋に延期した。この結果、当時パリを襲った[[インフルエンザ]]の影響から幸運にも逃れられることができた。1889年11月28日、[[ニース]]にて長女マリー・ルイーズが誕生。この頃の生活拠点はニースではマセナ広場近辺のアルベルティ通り18番地のヴィラ・ラランヌ、パリでは8区、クラベロン通りであった、1890年3月、リュドヴィック・バシェ美術出版社の「挿絵入り雑誌(ルヴェ・イリュストレ)」において短編「救助」にて商業デビューを果たす。同作は4月3日にルネ・モロが編集長を務める「挿絵入り盗人(ヴォルール・イリュストレ)」誌にも掲載される運びとなる。9月22日から11月20日までヴェルサイユの第11連隊に原隊復帰、[[伍長]]階級として再訓練を受ける。<br>
11月、サン・ジョセフ通りのエルネスト・コルブ社から短編集「Des couples」を自費出版。「ギ・ド・モーパッサン先生に捧ぐ」との献辞が記されていた。しかしながら売上は惨憺たるもので、後にルブランは「800フランをかけて1000冊刷ったのに3、40冊しか売れなかった」とぼやいている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P71</ref>。11月23日にフロベールの記念碑の落成式がルーアンの実家の付近にあるソルフェリーノ庭園で行われることを知ったルブランは、パリへの帰路の列車で、ギ・ド・モーパッサン、[[エドモン・ド・ゴンクール]]、[[エミール・ゾラ]]、[https://fr.wikipedia.org/wiki/Gustave_Toudouze {{仮リンク|ギュスターヴ・トゥードゥーズ]|fr|Gustave_Toudouze}}が乗車する[[コンパートメント]]に潜り込み、「Des couples」の書評を乞おうと試みるものの、当然のことながら彼らは除幕式で疲弊しており、到底書評を願える空気ではなかった。この件はルネ・モロが「シャンピモン」の筆名にて「挿絵入り盗人」誌が記事にし、同時に「Des couples」への好意的な書評を掲載している<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P72-74</ref>。1891年の夏には[[ヴォコット]]に滞在、[[エトルタ]]近郊に所在するモーパッサンの別荘「ラ・ギエット荘」を訪れたという話を友人にしているが、モーパッサンが最後にここを訪れたのは1890年の夏であるため、虚言の可能性が著しく高い<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P78</ref>。
 
 
=== 中堅作家へのキャリアの積み重ね===
ルブランはヴォコットには[[1894年]]まで毎夏滞在することとなる。[[1892年]]にはモーリス・ドネーに依頼され、この地で喜劇脚本「女の平和」を共同執筆するが、ドネーが共同執筆者である彼の名前を出さずに脚本を発表したことにより、ルブランは強く落胆する<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P80-81</ref>。けれども、同時期にエトルタで知り合った[https://en.wikipedia.org/wiki/Marcel_Pr%C3%A9vost {{仮リンク|マルセル・プレヴォー]|en|Marcel_Pr%C3%A9vost}}は「ジル・ブラス」紙のヴィクトール・デフォセ会長を紹介、これによりルブランは「[[ジル・ブラス]]」にコラムニスト兼投稿小説家として採用される。10月3日には早速ルブランの短編「嘘だ!(副題:苦しむ人々)」が掲載され、これによりルブランの名が世に知れ渡るようになった。同日、第二訓練期間としてルブランは第11連隊に原隊復帰、10月30日まで再訓練を受ける。12月3日、かねてより入会を求めていた作家協会の準会員となる。これは「女の平和」におけるルブランの著作権を守るためにも必要なことであった。12月22日、[https://{{仮リンク|グラン・テアトル|en.wikipedia.org/wiki/|Grand_Th%C3%A9%C3%A2tre_de_Bordeaux グラン・テアトル]}}で「女の平和」の公演の幕が開かれる。[[1893年]]4月9日、「ジル・ブラス」で長編小説「Une femme」の連載が開始、5月23日にオランドルフ社より単行本が出版される。オランドルフ社からは[[1894年]]4月10日にも「Ceux qui souffrent」が出版されることとなる。1894年6月11日には「自転車」のタイトルで「ジル・ブラス」に時評が掲載される。[[1895年]]4月4日、セーヌ県裁判所において既に疎遠となっていた妻マリーからの離婚請求が認められ、4月27日に離婚が成立する。これに関し、ルブランは「ジル・ブラス」の時評で「あなたは、平凡なのです」と前妻マリーを評した<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P109</ref>。11月初旬にはオランドルフ社から「L’Œuvre de mort」が出版される。これは「クーリエ・フランス」や「新聞と本の雑誌」等の書評において絶賛を受けた<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P112-113</ref>。ルブランは「ジル・ブラス」以外の著名誌への掲載を望みはじめ、[[ポール・エルビュ]]に「両世界評論」誌への口利きを頼むが、結局この試みは失敗に終わった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P113-114</ref>。<br>
[[1896年]]3月、スポーツジャーナリストの[https://fr.wikipedia.org/wiki/Pierre_Lafitte {{仮リンク|ピエール・ラフィット]|fr|Pierre_Lafitte}}が設立した自転車サークル「アーティスティック・サイクル・クラブ」に入会。これが後に[[ルパン]]シリーズを生み出すきっかけとなる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P114</ref>。5月12日には「ジル・ブラス」に「征服された自然」を寄稿、あらためて自転車への礼賛を示している。また同月、オランドルフ社から中短編集「Les Heures de mystère」が出版される。[[1897年]]初頭頃、夫エドワール・ウルマンと別居中であったマルグリット・ウォルムセールと出会い、交際を始める<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P121</ref>。4月末、オランドルフ社より「アルメルとクロード」が出版される。12月、「ジル・ブラス」に自転車を主題にした小説「Voici des ailes!」が掲載される。「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」の著者であるジャック・ドゥルワールはこの作品について、「ニーチェの響きが見出せる」「自転車は人に超人の生を与えるのだ」と評している<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P127</ref>。12月20日、当時発行部数65万部を誇っていた日刊紙「[https://fr.wikipedia.org/wiki/Journal_des_d%C3%A9bats {{仮リンク|ジュルナル・デ・デバ]|fr|Journal_des_d%C3%A9bats}}」に短編を寄稿。前後してコラムニストとして契約する<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P128</ref>。[[1898年]]2月、オランドルフ社より「Voici des ailes!」が出版される。この際、オランドルフ社編集長の依頼により匿名で新刊案内を作成。加えて、「スナップショット」と題するプロフィールも執筆したが、この中で「フロベールとモーパッサンの同郷人。彼らから貴重な助言を受けていた」と騙っている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P130-131</ref>。
 
 
===五年ものスランプ===
だが、順調かと思われた作家としてのキャリアにも[[1899年]]頃から陰がさし始める。恋人マルグリットの離婚調停がうまくゆかず、ルブランは心身ともに健康を損なっていた<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P121, P138</ref>。加えて、「ジュルナル・デ・デバ」に掲載された短篇小説をまとめた「Les Lèvres jointes」が6月に発売されたものの売れ行きは芳しくなく、職業の面でも苦境に陥った<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P141-142</ref>。最後となるはずの訓練兵役も「消化不良と[[るいそう|羸痩(るいそう)]]のため、1899年10月28日、パリ特別委員会により一時的な兵役免除となった」。さらに[[1900年]]10月5日には「ルーアンの特別委員会より、極度の羸痩と慢性胃病のため」、兵役義務を解かれている。<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P142、P147</ref>苦しい雌伏の時にありながらもルブランはニースや[[ブルゴーニュ]]のプーク=レ=ゾー村で温泉療養しつつ書き下ろしの小説を手掛け、[[1900年]]5月10日にはマルセル・プレヴォーならびに[[ジュール・ルナール]](「[[にんじん (小説)]]」の英訳に際し、妹ジョルジェットとその恋人[[モーリス・メーテルランク]]とともにルブランは翻訳者の仲介を手掛けていた)を推薦者としてフランス文芸家協会へ入会申請を行なっていた。この申請は無事10月29日に認められることとなる。[[1901年]]2月初頭に、書き下ろし自伝長編「L’Enthousiasme」がオランドルフ社より刊行される。これはルブランとしては相当の推敲と努力とを重ねた作品であった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P143</ref>が、反響はさしてなく、初動部数も1000部程度と悲しむべき数字に収まった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P148-149</ref>。<br>
この頃、ピエール・ラフィットが興した「Les Éditions Pierre Lafitte et Cie」社から女性向けファッション誌「Femina」への寄稿依頼を受け、[[1901年]]9月15日に「困難な選択」を発表。[[1902年]]6月からは「Les Yeux purs」の連載を始める。同年8月12日、マルグリットが長男クロードを極秘出産。また同時期にかの[[アンリ・デグランジュ]]の依頼を受け、「自動車・自転車」紙(のちに「自動車」紙に改名)に9月7日から短編の冒険・アクション小説を寄稿し始める。ルブランがそれまで書いてきた心理小説・[[純文学]]小説とは方向が異なるこれらの依頼を受けたのは単純に経済的な理由によるものであり(「ジル・ブラス」誌からの依頼は既に停止していた)、やはり彼としては渋々といった面が強かった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P152-156</ref>。[[1903年]]、「[https://en.wikipedia.org/wiki/Le_Petit_Journal_(newspaper) {{仮リンク|ル・プティ・ジュルナル]|en|Le_Petit_Journal_(newspaper) }}」紙の付録「Le Petit Journal Illustré」に寄稿を始め、8月30日には中篇「シャンボン通りサークルの犯罪<!-- フランス語・英語では該当する作品が見つからないため「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」からそのまま日本語名を転載 -->」を発表。「その題材はアルセーヌ・ルパンの『犯罪的な』冒険を予感させる」とジャック・ドゥルワールはこの作品について述べている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P161</ref>。[[1904年]]6月、オランドルフ社から「自動車」紙発表作品を中心にした短編集「Gueule-rouge 80-chevaux」が出版。この作品は「それまでルブランが執筆してきた心理小説とルパンの冒険との接点として位置づけられる」と、ジャック・ドゥルワールは分析している<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P164</ref>。12月29日、マルグリットとエドワール・ウルマンの離婚がセーヌ県裁判所で成立。[[1905年]]1月24日、父エミールが逝去。享年75歳であった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P165-166</ref>。
 
 
===ルパンの誕生、文芸作家の道活躍の訣別===
すでに中堅作家として名を成していたルブランであったが、それまで出版された10冊の総売上は2~3万部程度であり、職業作家としてはさらなる躍進が必要であった。そのため[[1904年]]には一幕ものの戯曲を数篇発表するなど新機軸に挑戦してみたものの、これは直ちに成功するものではなかった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P164-165</ref>。それと同時期に、ピエール・ラフィットと部下の[[アンリ・バルビュス]]は当時隆盛を誇っていた雑誌「[https://{{仮リンク|ル・プティ・ジュルナル|fr.wikipedia.org/wiki/|Lectures_pour_tous_(magazine) Lectures pour tous]}}」の対抗馬となる雑誌「[https://fr.wikipedia.org/wiki/Je_sais_tout {{仮リンク|Je sais tout]|fr|Je_sais_tout}}」創刊号を1905年2月15日に発売。そして、[[イギリス]]で「[[シャーロック・ホームズ]]シリーズ」の掲載により大商いとなっていた「[[ストランド・マガジン]]」の成功を踏まえ、これまで「Femina」誌で依頼通りの原稿を執筆してくれていたルブランに新たに「冒険短篇小説」の執筆を依頼する。ルブランの人生における最大の転機到来であった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P166</ref>。
 
ルブランは「自動車」紙や「Le Petit Journal Illustré」に掲載された作品群を習作とし、特に苦労することもなく無意識的に<!-- 当時ヒットしていた[[コナン・ドイル]]の[[シャーロック・ホームズ]]物のアンチヒーローとなる<ref>当時ルブランはドイルの作品を読んだことは無かった。</ref> -->、軽妙で魅惑的な「泥棒紳士」の[[アルセーヌ・ルパン]]を創造した<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P172</ref>。[[1905年]]7月15日に「Je sais tout」第6号で発表した読み切り「アルセーヌ・ルパンの逮捕」が大評判となり「Je sais tout」の売り上げも好成績だったため、ラフィットと[https://data.bnf.fr/10440712/marcel_l_heureux/ マルセル・ルールー](「ジル・ブラス」誌で執筆していた彼もラフィットの会社に転職していた)[[ギュルス (フランス)|ギュルス]] に滞在し、「自動車」紙の原稿にかかりきりであったルブランの元を8月に訪れてルパンの続編を書くように説得した。ルブランは「強盗は投獄されているんですよ」と反論したものの、ラフィットは「脱獄させろ」と応酬し、「続けろよ。フランスの[[コナン・ドイル]]になれるんだ。栄光を手にするんだ」とそそのかした。それでも「他のジャンルの文学に専念したい」と渋るルブランに対し、ラフィットは「そうかい?他のジャンルで頑張ったところでどうにもならないさ。心理小説は終わったんだ。今や『幻想と怪奇の文学』の時代だ(これは翌月の「Je sais tout」に掲載される[https://en.wikipedia.org/wiki/Gaston_Deschamps {{仮リンク|ガストン・デシャン]|en|Gaston_Deschamps}}」の論文のタイトルでもあった)」と返した。「大衆」小説作家に「身を落とす(ルブラン自身の言葉である)」事を嫌がるルブランの宿泊先をラフィットはほぼ毎日訪れ、「文学的な小説を書くだけでいい」と繰り返し頼み込み続けた。結果、経済的な理由もありルブランは続編を書くことにし、以後の作家人生のほとんどをルパンに注ぎ込むこととなった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P175</ref>。<br>
ルパンの「最初の12の短篇」の原稿とともにルブランがパリに戻った後、11月15日発売の「Je sais tout」は次号でルパンシリーズの掲載を仄めかし、翌月号には「第一回ルパン懸賞」つきで「獄中のアルセーヌ・ルパン」を掲載した<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P176</ref>。[[1906年]]1月31日、離婚に伴う法的猶予期間が終了したことにより、晴れてルブランはマルグリットと正式に結婚した。新居はクルヴォー通り8番地のアパルトマンの6階であった(この時代、家賃は高層階に行くほど安い傾向があった)<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P177-178</ref>。<br>
5月、ルパン発表前夜に書いた戯曲「La Pitié」の上演がアントワーヌ劇場で行われたが、この作品は大失敗であり、上演は8回で打ち切られた。5月6日、劇場オーナーのアンドレ・アントワーヌは日記にこう記している。「モーリス・ルブラン氏の見事な戯曲『La Pitié』の(観客つき)総稽古が、昨日、さんざんな結果に終わると、作者は『よろしい、お客に何が必要はよく分かった。真面目な劇作は諦めよう。これからは金を稼ぐためにこしらえますよ』と私に言った」。また、のちにアントワーヌはいくつかの著書の中でこうも回想している。「本質的で人間的、深く掘り下げた作品によって(戯曲作家としての)デビューを飾った」が、「見事な演技」にかかわらず「かなり冷ややかに迎えられた」、「『La Pitié』を是非とも(再度)上演したいと思った。とても価値のある作品なのに、観客が正当に評価しているように見えない。」「この失敗の後、作者は演劇を諦めて小説に専念し、アルセーヌルパンによって富と名声とを勝ち取ることになる」<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P178-181</ref>。同月の「Je sais tout」には「アンベール婦人の金庫」が「第五回ルパン懸賞」とともに掲載されたが、その回でのは「ルパンが対決する有名な探偵とは誰か?」であり、次号では「遅かりしシャーロック。ホームズ」が掲載された。結果、「Je sais tout」にはホームズを無断使用された[[コナン・ドイル]]からの抗議文が送られてきた。一方のルブランはと言えばちょうど「[[ルパン対ホームズ]]」「[[奇巌城]]」というホームズを敵役とする長編二本を執筆中であり、以後「ホームズ」の名前は[[アナグラム]]により変名されることになる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P181-182</ref>。12月25日、「自動車」紙に「クリスマス」が掲載される。ルパンの成功を汲み、著者名の下には「翻訳権所有」の但し書きがルブランの作品としては初めて記述された。なお、翌[[1907年]]2月7日に掲載された「駆け落ち専門」が「自動車」紙への最後の寄稿となる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P183-184</ref>。<br>
この頃からルブランは健康工場の理由から自粛していた文士たちとの社交を再開する。3月、[[猟官運動]]が功を奏し、文芸家協会の委員に就任、5月27日の協会会合で「翻訳権に関する事項」の担当委員に任命される<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P186-187、P190</ref>。5月発売の「Je sais tout」に掲載された「[[ハートの7]]」(予告ではルパンと[[ガニマール警部]]に挟まれたルブランの写真が掲載された)ののち<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P191-192</ref>、6月10日に発表済作品の改稿ながらルパン最初の書籍となる短編集「[[怪盗紳士アルセーヌ・ルパン]]」がラフィットのソシエテ・ジェネラル・デディシヨン・イリュストレ社より出版された。「タイトルは短編集を出そうと思った時に頭に浮かんだ」とルブランは語っている。献辞はラフィットに捧げられた。「親愛なる友よ、君は、自分では決して挑戦しようと思わなかった道に僕を導いてくれました。僕は、底にこんなにも多くの喜びと文学上の魅力を見出したのだから、この第一巻の冒頭に君の名を記し、僕の君への友情と変わらぬ感謝の意を表すのが当然だと思います」。優れた商売人であったラフィットは初版は2200部に限定し、版を重ねて広告を兼ねる方法を選んだ<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P192-193</ref>。6月12日、ソシエテ・ジェネラル・デディシヨン・イリュストレ社と正式契約。初版2200部、価格は3.50フラン、印税は一部につき60サンチーム、契約期間は10年。但し書きは「モーリス・ルブラン氏はピエール・ラフィット氏に探偵風俗小説は全てを提供することを約束し、一方、ピエール・ラフィット氏はそれらを同条件のもと同じ双書で出版することを約束する。(中略)最低一年に一冊の割合で出版し、これらの書籍のうちの一冊の売上げが、発売後一年で三千部を上回らなかった場合には、ピエール・ラフィット氏は本契約を解除する権利を有する」というものであった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P192-193</ref>。[[1908年]]11月より「Je sais tout」に「奇巌城」が「新アルセーヌ・ルパン懸賞」とともに連載開始、翌[[1909年]]には単行本化される。これについて、ルブランは「もう駄目だった。僕はもうアルセーヌ・ルパンから離れられなかった」と述懐している。「エトルタの針岩の中を穿つ」というアイデアのきっかけは今日も不明なままである<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P199-200</ref>。
 
 
ルパンは大あたりを取り、ルブランに作家としての名声と、経済的な報酬をもたらした。ドイルがホームズ物を飽くまで第三者の視点で描いたのに対し、ルブランは1907年発表の「[[怪盗紳士ルパン]]」中で、自身をルパンの伝記作家として登場させている(「王妃の首飾り」、「[[ハートの7]]」)。
=== 大御所へ ===
翌[[1908年]]1月13日、文芸家協会に「小説『アルセーヌ・ルパン』がブカレストの新聞『ルーマニア』に無断転載された」との廉で、当該新聞を訴えるために協力を求める。また同時期より各国翻訳への営業活動をはじめる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P201-202</ref>。1月17日、文芸家協会における功績により、「公教育と美術」の分野で[[レジオン・ド・ヌール]]のシュバリエ章を受章<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P202</ref>。2月10日、「ルパン対ホームズ」が出版。連載版から大幅な改訂がなされ、結末までもが変えられていた<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P204</ref>。この年の秋頃、演劇作家フランシス・クロワッセと共作していた戯曲「[[ルパンの冒険]]」の脚本が依頼者アベル・ドゥヴァルへ納品される<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P201</ref>。この四幕物の舞台は10月28日の最終リハーサルから爆発的な人気を見せ、長期的に上演を重ねる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P208-211、P213</ref>。11月より「Je sais tout」に「奇巌城」が「新アルセーヌ・ルパン懸賞」とともに連載開始。これについて、ルブランは「もう駄目だった。僕はもうアルセーヌ・ルパンから離れられなかった」と述懐している。「エトルタの針岩の中を穿つ」というアイデアのきっかけは今日も不明なままである<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P199-200</ref>。<br>
[[1909年]]3月28日、文芸家協会の総会でルブランは副会長(定数二名)に選出される。6月15日、「奇巌城」の単行本が発売される<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P215</ref>。11月8日、とある晩餐会に文芸家協会の代表として出席し、[[ロラン・ボナパルト]]に文学賞の設立を提案する<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P219</ref>。3月5日より「ジュルナル・デ・デバ」において「[[813]]」が連載開始。[[ガストン・ルルー]]と[[レオン・サジ]]を擁するライバル紙「{{仮リンク|ル・マタン (フランス)|fr|Le Matin (France)|en|Le Matin (France)|label=ル・マタン}}」に「ジュルナル・デ・デバ」が対抗する手段がルパンの連載であった。6月、「813」の単行本が発売される。初版は12,000部という当時としては強気な部数であり、それでも8月と12月には5千部づつ増刷された<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P222-223</ref>。10月28日より、ヴィクトール・ダグレとアンリ・ド・ゴルスが共作した舞台劇「アルセーヌ・ルパン対エルロック・ショルメス」がシャトレ座で[[1910年]]3月末まで上演され、大ヒットとなった。これは前年にルブランが二人と交わした契約に基づく作品であった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P216-217、P227-228</ref>。11月18日、ラフィットが新たに興した日刊紙「エクセルシオール」第三号にルブランの「ルパン物ではない」中篇「うろこ柄のピンクのドレス」が掲載された。<br>
ルパンは大あたりを取り、ルブランに作家としての名声と、経済的な報酬成功をもたらした。ドイルがホームズ物を飽くまで第三者の視点で描いたのに対し、ルブランは1907年発表の「[[怪盗紳士ルパン]]」中で、自身をルパンの伝記作家として登場させている(「王妃の首飾り」、「[[ハートの7]]」)。
 
ドイルは[[シャーロック・ホームズシリーズ|ホームズシリーズ]]の成功に対してむしろ困惑し、犯罪小説で成功することを、より「尊敬に値する」文学的情熱から遠ざけるもので、生活を妨害されているようでさえあると感じていたともいわれている。同様にルブランも、もともと純文学・心理小説作家を志していた事もあり、[[犯罪#犯罪とフィクション|犯罪小説]]・[[探偵小説]]であるルパンシリーズで名声を博する事に忸怩たるものがあったといわれる。ドイルがホームズを[[ライヘンバッハの滝]]に落としたのと同様、ルブランも『[[813 (小説)|813]]』(1910年)でルパンを自殺させている。「ルパンが私の影なのではなく、私がルパンの影なのだ」という言葉などにも、その苦悩の跡が見られる。その後は歴史小説『国境』(1911年)、モーパッサンの影響のある短編集『ピンクの貝殻模様のドレス』(1911年)、空想的な作風の『棺桶島』(1919年)、[[サイエンス・フィクション|SF]]に分類される『三つの眼』(1919年、[[ファーストコンタクト]]・テーマ)、『ノー・マンズ・ランド』(1920年)などを発表。また1915年頃から映画公開と並行して発売される小説シネロマンという形態が生まれると、その執筆者に名を連ねた。
 
その後1920年『アルセーヌ・ルパンの帰還』でにルパンを復活させ、1927年には新しい探偵ジム・バーネットものを発表するが、このバーネットも実はルパンであることが後に明かされた。1930年代には文学界からも作家として高い評価を得るようになり、『ラ・レピュブリック』紙でフレデリック・ルフェーヴルから「今日の偉大な冒険作家のひとりである」「同時に純然たる小説家、正真正銘の作家である」と賞されている<ref>ジャック・ドゥルアール「モーリス・ルブラン 最後の小説」坂田雪子訳(『リュパン、最後の恋』東京創元社 2013年)</ref>。1930年代には恋愛小説『裸婦の絵(''L'image de la femme nue'' *これは絵じゃなく彫刻。裸婦像)』『青い芝生のスキャンダル』も執筆。小説の戯曲化にも意欲を注ぎ、1935年には『赤い数珠』を舞台化した『闇の中の男』が大成功を収めた。
 
『[[ジル・ブラス]]』紙に連作短編 "Contes essentiels" を発表した際(不定期。1893年4月28日から1894年11月5日まで)には、「L'Abbé de Jumiège(ジュミエージュ大修道院長)」のペンネームを用いた(ただし、1894年4月2日号分からは本名で発表されている。ジュミエージュ大修道院はフランス革命の時にその本来の役目を終え、『奇岩城』や『カリオストロ伯爵夫人』でもその遺跡の姿が描写されている)。
 
晩年、「ルパンとの出会いは事故のようなものだった。しかし、それは幸運な事故だったのかも知れない」との言葉を残し、その自分の経歴も受け入れられるようになったとも見られ、『アルセーヌ・ルパンの数十億』(1939年)にいたるまで、ルパンシリーズを執筆する。
68 ⟶ 77行目:
 
===エピソード===
* 『[[ジル・ブラス]]』紙に連作短編 "Contes essentiels" を発表した際(不定期。1893年4月28日から1894年11月5日まで)には、「L'Abbé de Jumiège(ジュミエージュ大修道院長)」のペンネームを用いた(ただし、1894年4月2日号分からは本名で発表されている。ジュミエージュ大修道院はフランス革命の時にその本来の役目を終え、『奇岩城』や『カリオストロ伯爵夫人』でもその遺跡の姿が描写されている)。
 
* 亡くなる数週間前に、「ルパンが私の周りに出没して何かと邪魔をする」という趣旨の被害届を警察署に出し、そのため警察官が24時間体制で警備し、最期の日々の平穏を守った。