「苻黄眉」の版間の差分

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[[355年]]6月、苻健が没すると子の[[苻生]]が即位した。苻黄眉はかねてより苻生と親しかったので、寵遇を受けた。8月、広平王に封じられた。
 
[[356年]]4月、左光禄大夫[[強平]]は苻生の粗暴な振る舞いを厳しく諌めた事により、獄に繋がれた。苻黄眉は建節将軍[[トウ羌|鄧羌]]・[[前将軍]][[苻飛]]と共に、叩頭して処刑を思い止まるよう強く諫めた。強平は苻生の母の[[明徳皇后 (前秦)|強皇太后]]の弟であったが、苻生はこれに一切耳を貸さず、結局強平は処刑された。苻黄眉は[[馮翊郡|馮翊]]太守に任じられて左遷されたが、苻生はその武勇を惜しんで殺害しなかったという。
 
[[357年]]4月、[[関中]]攻略を目論んでいた[[姚襄]]が軍を進めて[[黄陵県|杏城]]に駐屯し、従兄の[[姚蘭]]を遣わして[[富県|敷城]]を攻撃し、さらにその兄である[[姚益]]・将軍[[王欽盧]]を遣わして[[北地郡|北地]]にいる羌の諸部族を招集させた。諸部族は皆この呼び掛けに応じ、5万戸余りが付き従い、集まった兵は2万7千を数えた。苻黄眉は前将軍[[苻堅]]・鄧羌と共に歩兵騎兵合わせて1万5千を率いて姚襄討伐に向かった。これに対して姚襄は、堀を深く塁を高くして守りを固め、軍を進めようとはしなかった。 鄧羌は「矢傷を負った鳥は、矢に当たっていないかのように見せかけて、地上に降りるといいます。 姚襄はここ最近、[[桓温]]・[[張平 (後趙)|張平]]に立て続けに敗北を喫しています。そのため、実は鋭気を大きく喪失しています。 今、塁を固めて戦おうとしないのは、我らの侵攻に困惑しているからに他なりません。 姚襄の性格は剛直なことで有名ですが、それが故に動かされやすくもあります。 ここで我らが堂々と太鼓を打ち鳴らして軍を進め、塁に逼迫すれば、姚襄は必ずや憤りを覚え、軍を出撃させてくるでしょう。 そうなれば一戦で生け捕りに出来ましょう」と苻黄眉に建策すると、これに従った。5月、鄧羌は騎兵3千を率いて塁門に迫る形で布陣すると、姚襄は怒って全軍を挙げて撃って出た。鄧羌は相手に優勢に立っていると思わせるように軍を退き、 姚襄軍を本陣から遠く引き離させた。姚襄はまんまとこの偽退却に引っ掛かり、追撃を続けて三原にまで至ったが、 ここで鄧羌は騎兵を反転させ、敵軍に突撃を開始した。これを合図に苻黄眉は苻堅と共に出撃し、姚襄を挟撃した。これにより姚襄を討ち取ると、敵軍は戦意を失い降伏した。