「文禄・慶長の役」の版間の差分

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ほか
|commander2 = '''明軍'''
兵部尚書[[邢玠]]('''総督''')<br>[[都察院]]右僉都御史[[楊鎬]]→[[万世徳]]<br>'''提督'''[[麻貴]]<br>禦倭総兵官[[劉テイ (明)|劉綎]]<br>禦倭総兵官[[董一元]]<br>水帥[[陳リン|陳璘]]<br>副総兵[[陳サン|陳蠶]]<br>副総兵[[トウ子龍|鄧子龍]]<br>左協軍大将[[李如梅]]<br>'''朝鮮軍'''<br>都元帥[[権慄]]<br>三道水軍統制使[[李舜臣]]→[[元均]]→[[李舜臣]]<br>全羅右水使[[李億祺]]<br>義兵大将[[郭再祐]]<br>晋州牧使[[金時敏]]
|strength1 = 141,500人<ref>非戦闘員含む。{{Harvnb|中野|2008|loc=p.192}}</ref>
|strength2 = (諸説あり)
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小西軍の脱出が阻まれていることが確認されると泗川から撤退してきた[[島津義弘]]、[[立花宗茂]]、[[立花直次|高橋直次]]、[[寺沢広高]]、[[宗義智]]、[[小早川秀包]]、[[筑紫広門]](上野介広門の子・主水正広門)<ref>『柳川市史・史料篇V・近世文書』(前編)P.240、佐田家文書A12より、秀包と広門の参戦が判明。</ref>らの諸将は救援に向かうために水軍を編成して進撃した。島津義弘、立花宗茂らの救援軍が近づくのを知ると[[明]]・朝鮮水軍は順天の海上封鎖を解いて迎撃を行い、両軍は11月18日夜間、露梁海峡において衝突する。
 
この[[露梁海戦]]で島津水軍は苦戦したとされ、明・朝鮮側の資料では自軍の勝利を強調している。しかし、明・朝鮮軍では明水軍の副将、{{lang|zh-hant|[[トウ子龍|鄧子龍]]}}や朝鮮水軍の主将で三道水軍統制使の李舜臣、さらに、[[李英男]](加里浦僉使)、[[方徳龍]](樂安郡守)、[[高得蒋]](興陽県監)、[[李彦良]]、といった複数の[[将官]]が戦死した。一時突出した明軍の主将[[陳璘]]も日本軍の包囲から危うく逃れたとされ{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=317}}、明・朝鮮水軍が退却する日本軍を追撃したり、あるいは再び順天を封鎖することは適わなかった。明・朝鮮水軍が出撃したことによって順天の海上封鎖が解けたことを知った小西行長は、海戦海域を避け、戦闘に参加することなく海路脱出に成功し、[[巨済島]]に到着した。島津・宗・立花勢らも巨済島に到着した。こうして西部方面の日本軍は撤退を完了し、さらに釜山浦に向かった<ref>中野等『文禄・慶長の役』吉川弘文館 254頁</ref>{{Sfn|旧参謀本部|1995|p=317}}。
 
一方、蔚山・西生浦・梁山・竹島など東部方面に展開していた日本軍は、これより先の11月15日頃から各自城を撤し順調に釜山に向かっている<ref>中野等『文禄・慶長の役』吉川弘文館 251頁</ref>{{Sfn|旧参謀本部|1995|pp=314,316}}。
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:[[祖承訓]]、[[宋応昌]]、[[李如松]]、[[千萬里]]、[[李如柏]]、[[李如梅]]、[[李寧 (明)|李寧]]、[[査大受]]、[[楊元]]、[[張世爵]]、[[沈惟敬]]
*慶長の役参戦主要武将
:[[麻貴]]、[[楊鎬]]、{{lang|zh-hant|[[劉テイ (明)|劉綎]]}}、[[董一元]]、{{lang|zh-hant|[[陳リン|陳璘]]}}、{{lang|zh-hant|[[トウ子龍|鄧子龍]]}}、[[邢玠]]、[[李如梅]]、[[高策]]、[[李芳春]]
;朝鮮側
*王族:[[宣祖]]、[[光海君]]、[[臨海君]]、[[順和君]]