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[[926年]]([[延長 (元号)|延長]]4年)祖父宇多法皇の下で[[出家]]し、[[948年]]([[天暦]]2年)[[寛空]]から[[灌頂]]を受けた。[[967年]]([[康保]]4年)[[仁和寺]][[別当]]を経て、[[貞元 (日本)|貞元]]2年([[977年]])6月[[権律師]]、同10月[[権少僧都]]・[[法務 (仏教)|法務]]、11月[[東寺長者|東寺三長者]]・[[西寺]]別当に補任、加えて広沢房を[[御願寺]]として別当に補せられたため、年に六度の賀ありと言われ、[[986年]]([[寛和]]2年)真言宗では初めて、また、日本では三番目の[[大僧正]]に至った。この間、[[円融天皇]]が受戒する際の戒和尚を勤めている。[[989年]]([[永祚 (日本)|永祚]]元年)10月26日[[円融天皇]]の命により広沢湖畔に遍照寺を建立した。この際の供養の記事が[[藤原実資]]の日記[[小右記]]に載っており、円融法皇を始めとして多くの公卿が参列したことが分かる。密教の事相・教相に詳しく「金剛界次第」「不動次第」などを著している。また「理趣経」読誦の音調を整備するなど声明に通じ、東密声明中興の祖とされる。
 
[[940年]]([[天慶]]3年)[[平将門]]が関東で反乱を起こした際には自ら関東に下向し祈祷をしたとされる。その時に祈祷した[[不動明王]]を本尊として創建されたのが「成田不動」で有名な[[成田山新勝寺]]である。
 
== 脚注 ==