「ベニート・ムッソリーニ」の版間の差分

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[[1923年]]8月、第一次世界大戦の戦勝国による外交組織「[[大使会議]]」による[[アルバニア]]、[[ユーゴスラビア]]、[[ギリシャ]]など[[バルカン]]諸国の国境線を確定する為の調査が行われていたが、国境調査団のメンバーであったイタリア陸軍の{{仮リンク|エンリコ・テルリーニ|en|Enrico Tellini}}将軍が暗殺される事件が発生した。当初から領土問題に不満を持っていたギリシャ系組織による犯行が疑われ、イタリアや国際社会からの強い抗議を受けてもギリシャ政府は関係を否定し、調査や謝罪を拒否する姿勢を取った。これに対してムッソリーニは国際社会による調停を見限って強硬手段での解決を目指し、海軍によって[[8月31日]]に[[ギリシャ王国]]領[[ケルキラ島]](コルフ島)を占領させた([[コルフ島事件]])。最終的にギリシャ政府は事件に関する責任や調査の不手際を認めてイタリアに謝罪し、5千万リラの賠償金を支払った。対外的な強行姿勢は国民の愛国心を高め、ムッソリーニ連立政権への支持はますます上昇した。
 
[[1924年]]、ユーゴスラビア王国と友好条約を結び、隣国との外交関係を強化した。また、同時期、イタリアは[[ソヴィエト連邦]]を国家承認して外交関係を強化した。1925年10月、英仏独伊共同最初平和条約である[[ロカルノ条約西側諸国]]を締結しとなっ<ref>Payne, Stanley G (1995). A history of fascism, 1914-1945. London: UCL Press. pp. 223. ISBN 1857285956. OCLC 35359035.</ref>
 
[[1925年]]10月、英仏独伊共同の平和条約である[[ロカルノ条約]]を締結した。
 
====総選挙における勝利====