削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集 Androidアプリ編集
編集の要約なし
1行目:
'''廉 頗'''(れん ぱ、[[拼音]]:Lían Pō、生没年不詳)は、[[戦国時代 (中国)|中国戦国時代]]の[[趙 (戦国)|趙]]の[[将軍]]。[[藺相如]]との関係が「'''[[刎頸の交わり]]'''」として有名。
 
== 生涯 ==
=== 前半生の活躍 ===
[[紀元前283年]]、将軍となり秦を討ち、[[昔陽]]を取る。[[紀元前282年]]、斉を討ち、[[陽晋]](現在の[[山東省]][[巨野県]])を落とした。この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。
 
=== 刎頸の交わり ===
16行目:
天下統一をねらう秦は[[白起]]を中心に他国への侵略を開始。廉頗と相如が健在であるうちは秦に侵攻されなかった趙も、この頃になると相如は病に倒れ、廉頗も高齢となっていた。[[紀元前260年]]、秦は[[王コツ|王齕]]に趙の上党を陥落させる。廉頗は上党の避難民を救出するために派遣されたが、秦軍の勢いを目の当たりにした廉頗は要塞に籠城。戦いを長期戦に持ち込む。
 
敵地で長期戦になることに危機感を抱いた秦は一計を案じ、歴戦の猛者である廉頗に代わって、若く経験不足の[[趙括]]が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとかかった趙の[[孝成王 (趙)|孝成王]]は総大将を交代させる。これを聞いた相如は重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられず、結局趙軍は敗れ、捕虜となった40万の兵士が生き埋めにされた([[長平の戦い]])。以後、趙は滅亡の一途をたどっていくのであるが、廉頗は老骨に鞭打って戦争に参加した。長平の戦いのあと、趙の衰退を見た[[燕 (春秋)|燕]]王[[燕王喜|喜]]は趙に軍を侵攻させるが、廉頗は鄗(現在の[[河北省]][[柏郷県]]北部で燕軍を大いに破り、逆に追撃して燕都の[[房山区|薊]]を包囲し、燕から5城を取って和睦した。また[[秦]]も廉頗のいる趙には手が出せず、趙の孝成王は廉頗の長年の功績を称えて尉文という邑の地を与えて信平君に封じ、[[紀元前251年]]に[[平原君]]が死去したため空席になっていた[[相国]]代行に任命された。
 
=== 不遇の晩年 ===
[[紀元前245年]]、廉頗は[[魏 (戦国)|魏]]に侵攻して繁陽(現在の河北省[[内黄県]])の城を攻め落とした。だが直後に[[孝成王 (趙)|孝成王]]が崩御して[[悼襄王 (趙)|悼襄王]]が即位すると、廉頗は悼襄王によって将軍職を罷免させられた<ref>悼襄王が太子の頃から不仲で対立していたためという</ref>。その事を恨んで後任の将軍の[[楽乗]]を攻撃して撃破する。これにより廉頗は趙に居られなくなり魏の[[大梁]](現在の[[河南省]][[開封市]]西西)へ亡命する。楽乗もまた他国へ亡命してしまう。だが、魏では信任されなかったために大軍を率いる事は無かった。
 
廉頗のいなくなった趙は、秦王政(後の[[始皇帝]])の下でさらなる強国になろうとしていた秦の格好の標的とされた。そのため趙は廉頗のもとに使者を送って帰参を許そうと図る。廉頗は年老いても「一飯に斗米、肉十斤、甲を被り馬に上り」<ref>『史記』</ref>といわれるほどに元気な姿を使者に見せて帰参を承知した。だが廉頗が趙にいた頃から不仲だった[[奸臣]]である[[郭開]]の謀略で使者が買収されてしまう。そして趙王が廉頗の様子を伺うと、使者は「三度遺矢」<ref>「使者と会談中に3度も小用に立った」「使者と会談中に3度も失禁し、しかも気づかなかった」の意であり、どちらの意かは諸説ある</ref>と讒言した。このため趙王は廉頗が高齢で使いものにならないとして諦めたという。
33行目:
{{Reflist}}
 
== 関連事項参考文献 ==
*[[司馬遷]]『[[史記]]』
=== 史料 ===
* [[史記]]([[司馬遷]])
 
{{DEFAULTSORT:れん は}}