「フラメンコ」の版間の差分

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{{複数の問題|正確性=2011年8月|出典の明記=2015年2月}} {{Stub}}
{{Infobox music genre
| name = フラメンコ
スペイン国内において、より独自性の強いアンダルシアのアイデンティティーをフラメンコにもとめて、極端なものとしては紀元前のアンダルシアに居住・侵入した[[タルテッソス]]や[[フェニキア|フェニキア人]]、[[ローマ帝国]]時代の[[カディス|ガデス]]、紀元後の[[西ゴート王国]]などの歌舞音曲にフラメンコのルーツをもとめようとする意見もあるが、それらの僅かな文献や遺物とフラメンコを比較することは不可能といえる。
 
またその後アンダルシアを長く支配したイスラム教徒、また居住していた[[ユダヤ人]]の音楽がフラメンコに影響を与えたという説は、アンダルシアの文化全般への彼らの影響の大きさを鑑みて妥当とはされるものの、音楽としてフラメンコとの明確な関連性や類似性は立証されていない。またフラメンコの成立に大きな役割を担った[[ロマ|ヒターノ]]のルーツとされる[[インド]]の音楽や、彼らが移動してきた経路上の各地の音楽にルーツを探ろうとするものもある
またフラメンコの成立に大きな役割を担った[[ロマ|ヒターノ]]のルーツとされる[[インド]]の音楽や、彼らが移動してきた経路上の各地の音楽にルーツを探ろうとするものもある。
 
<!-- この芸能の成立に大きな影響を与えたのはヒターノのほか、いわゆるモーロ人([[ムーア人]])、すなわち[[イベリア半島]]や[[北アフリカ]]に住んでいた[[イスラム教徒]]の影響が大きう、2つのグループの協働ともいわれる。その理由として現在考えられているのは、イベリア半島における[[モリスコ]](改宗イスラム教徒)追放令である。[[1492年]]に[[グラナダ]]が陥落、当初は寛容な協定が交わされていたが、カトリック教会による性急な改宗強制により[[1499年ナスル朝]]にグラナダで反乱勃発。鎮圧後滅亡すると[[カトリック両王]]スペイン政府はモーロ人に改宗か国外退去を迫った。その後イスラム教徒は表向きはキリスト教徒に改宗してイベリア半島に留まったが、徐々に禁令やそれに対する反乱、強制移住や国外退去が度重り、とくに[[1570年]]前後[[アルプハラ]]蜂起失敗をきっか締めつにグラナダ領内から[[バレンシア]]が厳しくどへ追放さらに[[1609年]]からにはスペイン全土からのモリスコの追放令が出された。しかしモリスコの中にはヒターノのコミュニティに潜伏してなおもイベリア半島に留まる者が少なくなかった<ref>「フラメンコのすべて」p48-49 有本紀明 講談社 2009年8月3日第1刷発行</ref>。一方のヒターノは[[1462年]]にはアンダルシアに到着し、17世紀から18世紀にかけて数多くの禁令または懐柔策で定住を強要させられつつ、それまでに国外に退去した職人や農業従事者としてのムスリム・モリスコの抜けた穴を埋めていった。この過程でモリスコの音楽とヒターノの音楽の融合が起きたと考えられている<ref>「フラメンコのすべて」p89 有本紀明 講談社 2009年8月3日第1刷発行</ref>
一方のヒターノは[[1462年]]にはアンダルシアに到着し、17世紀から18世紀にかけて数多くの禁令または懐柔策で定住を強要させられつつ、それまでに国外に退去した職人や農業従事者としてのムスリム・モリスコの抜けた穴を埋めていった。
その後この時期にアンダルシアのヒターノがモリスコと接触し、その結果として生まれたのが、現在フラメンコと呼ばれる芸能ともいえる。-->
 
<!-- フラメンコを生み出したヒターノのコミュニティにも低地([[グラナダ]]など)のものと高地([[ロンダ]]など)のものがあり、前者はヒターノの音楽である[[ロマンセ]]の要素を、後者は[[ファンダンゴ]]の要素をフラメンコにもたらしたと考えられている。{{要出典|date=2020年6月}}-->