「新青梅街道」の版間の差分

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== 歴史 ==
新青梅街道に該当する都市計画道路は以下の通り。
*[[1946年]]([[昭和21年]])[[4月25日]] 補助76号線(戦災復興院告示15号)
*[[1961年]]([[昭和36年]])[[10月5日]] 立川3・2・4号新青梅街道線(建設省告示第2295号)
*[[1962年]]([[昭和37年]])[[7月26日]] 東村山3・4・4号新青梅街道線(建設省告示第1777号)
*[[1963年]](昭和38年)[[8月3日]] 小平3・4・4号(建設省告示第1895号)(東村山都市計画から分離独立)
*福生3・4・4号新青梅街道線
*[[1967年]](昭和42年)[[5月23日]] 田無3・5・4号(建設省告示第1663号)、保谷3・4・4号(建設省告示第1664号)(現・西東京3・5・4号)
*福生3・4・4号新青梅街道線
 
このうち、江戸時代には「江戸道」、明治時代には「東京街道」と呼ばれた、箱根ヶ崎から田無に至る道路が元々存在しており、東大和市狭山5丁目にある「東京街道入口」交差点より西はこの道路が拡張され、「東京街道入口」交差点より東は新規に敷設された。このため、箱根ヶ崎から東大和市狭山5丁目までの旧道は新青梅街道へ置き換わったが、東大和市狭山5丁目から田無までの旧道は2020年現在も「江戸街道」として存在している。
なお、江戸時代から明治初年の旧道の頃は、道沿いに住む人々にとって青梅街道(当時は青梅道と呼ばれた)よりも江戸への近道であったため、活況していた時期もあったが、明治中期から昭和にかけて寂れていき、農家が点在するだけとなっていた<ref>{{Cite book |町教育委員会『書 |year=1970 |title=青梅街道主婦の見てある記』1970年、103–104頁 |publisher=大和町教育委員会 |pages=103-104 }}</ref>。
 
[[1963年]][[昭和38年]])には大和町(現:東大和市)の清水から奈良橋において開通された<ref>{{Cite web|title=奈良橋庚申塚(東大和市) | 東大和の歴史|url=https://higashiyamato.net/higashiyamatonorekishi/2019/09/05/narahashikousinnduka/|accessdate=2020-07-04|publisher=東大和どっとネット}}</ref>。
 
[[1967年]][[昭和42年]])には東村山市において開通された<ref>{{Cite web|title=昭和42年|url=https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/smph/tanoshimi/rekishi/mokuji/s42.html|accessdate=2020-07-04|publisher=東村山市}}</ref>。
 
[[1969年]]([[昭和44年]])には大和町の奈良橋から芋窪において開通された<ref>{{Cite web|title=奈良橋庚申塚(東大和市) | 東大和の歴史|url=https://higashiyamato.net/higashiyamatonorekishi/2019/09/05/narahashikousinnduka/|accessdate=2020-07-04|publisher=東大和どっとネット}}</ref>。
 
[[1971年]]([[昭和46年]])には武蔵村山市において開通された<ref>{{Cite web||format=PDF|title=市報 武蔵村山|url=http://www.city.musashimurayama.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/980/h221103.pdf#page=5|date=2010-11-03|accessdate=2020-07-04|publisher=武蔵村山市}}</ref>。
 
同年、瑞穂町において開通された<ref>{{Cite web|title=町のあゆみ 瑞穂町|url=http://www.town.mizuho.tokyo.jp/tyosei/001/p002915.html|accessdate=2020-07-04|publisher=瑞穂町}}</ref>。