「アナトリー・ルナチャルスキー」の版間の差分

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[[1898年]]ロシアに帰国する。帰国後は[[モスクワ大学]]に聴講生として通うが、ロシア社会民主労働党モスクワ委員会を再結成する組織活動に参加したため、当局によって逮捕・投獄された。その後[[キエフ]]を経て[[カルーガ]]に流刑となる。カルーガでは同様に流刑となっていた[[アレクサンドル・ボグダーノフ]]と知り合い、無二の親友となる。[[1903年]]秋に社会民主労働党が[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]率いる[[ボリシェヴィキ]]と[[マルトフ]]を中心とする[[メンシェヴィキ]]に分裂する。その後、[[ヴォログダ]]に流刑となるが[[1904年]](1903年説有り)に亡命し、先に国外に出ていたボグダーノフの勧めではボリシェヴィキに所属する。ヨーロッパ亡命中に「フペリョート(前進)」紙、「プロレタリー」紙の編集部で活動する。
 
[[1905年]]ロシアに帰国するも逮捕され、[[1906年]]再び亡命する。1905年まではボリシェヴィキの中核メンバーのひとりであったが、第一次ロシア革命以後、社会主義的世俗宗教の創設を目指し「建神論」([[:en:God-Building]])を提唱する。しかし建神論をレーニンが酷評した後、[[1908年]]頃からレーニンと対立するようになる。さらに[[1909年]]レーニンとボグダーノフが対立し、ルナチャルスキーはボグダーノフを支持した。彼らはボリシェヴィキ左派である「フペリョート」派を構成した。同年[[イタリア]]の[[カプリ島]]で党学校をボグダーノフ、建神論を支持した[[マクシム・ゴーリキー]]とともに運営する。[[1910年]]ボローニャの党学校に移り、ボグダーノフ、ミハイル・ポクロフスキーとともに[[1911年]]まで講義を続けた。[[1913年]][[パリ]]に移り[[アレクセイ・ガースチェフ]]、[[ミハイル・ゲラーシモフ]]らとサークル「プロレタリア文化サークル同盟」開催結成する。
 
[[1914年]][[第一次世界大戦]]が起こると、反戦国際主義の立場を表明しレーニン、[[レフ・トロツキー]]に接触した。[[1915年]][[パーヴェル・レーベジェフ=ポリャンスキー]]とともに社会民主主義の立場からプロレタリア文化を強調するとして「フペリョートVpered」紙を再開する。[[1917年]][[ロシア革命]]([[2月革命 (1917年)|二月革命]])が起こると同年5月[[ドイツ]]経由で帰国する。他の国際主義者同様、トロツキーの「メジライオンツイ」派に短期間参加し、7月ボリシェヴィキに復党する。二月革命後、[[ペトログラード]]市会議員、副市長となり、同市を中心に扇動家として活躍する。