「坪井航三」の版間の差分

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1969年、[[坪井信友|坪井信友(二世信道)]]の養子になることを藩主に命じられ、坪井姓を名乗る。坪井家は[[坪井信道]]が1838年に長州藩士の侍医になった時から長州藩との関係がある家柄である<ref>高橋文雄『坪井航三研究序説』</ref>。
 
[[1871年]]6月10日、海軍[[大尉]]に就任。同日「甲鉄艦」副長に就任したが、13日に免じられ、海軍修行を申付けられる。3日間の副長人事は坪井がコロラド号で訓練を積むため際に士官扱いされるように兵部省による計らったとする意見もある<ref>高橋文雄『坪井航三研究序説』</ref>。
 
[[1871年]]([[明治]]4年)9月、横浜でアメリカ海軍所属{{仮リンク|アジア艦隊|en|Asiatic Squadron|}}(司令長官{{仮リンク|ジョン・ロジャーズ (海軍軍人)|label=ジョン・ロジャーズ|en|John Rodgers (American Civil War naval officer)|}})の旗艦{{仮リンク|コロラド (艦船)|label=コロラド|en|USS Colorado (1856)|}}に乗り組み、中国の沿岸を巡航し、実地訓練を積む。[[1872年]]([[明治]]5年)4月、コロラド号のアメリカ帰国に際し、ロジェーズ少将に従い渡米し、[[ワシントンD.C.]]にあるコロンビアン・カレッジ付属中学校(現在の[[ジョージ・ワシントン大学]])に学んだ。留学中は「坪井則光」の名前を使用していた。[[1874年]]([[明治]]7年)7月、官費海外留学生の一斉帰国命令(1873年12月に発令)に従い、帰国<ref>高橋文雄『坪井航三研究序説』</ref>。[[1874年]]8月、海軍[[少佐]]、「第一丁卯」艦長に就任。
 
[[1890年]]9月、海軍[[少将]]、佐世保軍港司令官に就任。[[1892年]]12月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校長]]に就任。[[1893年]]12月、[[海軍大学校|海軍大学校長]]に就任。