「平和相互銀行」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
17行目:
相銀転換後しばらくして、夜9時までの窓口営業を開始(後に[[行政指導]]により夜7時までの営業に短縮)した。これは当時、同行の顧客の多くが[[水商売]]で夜遅くまで営業していたことから、[[大蔵省]]に直談判して窓口の夜間営業を認めさせたと謂われている。こうした夜間までの窓口営業に加え、[[首都圏 (日本)|首都圏]]の駅前から[[住宅地]]まで店舗網の整備を進めたほか、[[都市銀行]]各行と提携し[[現金自動預け払い機|ATM]]ではどの銀行の[[キャッシュカード]]でも使用可能とするなど、顧客に対する利便性の充実に努めた。これら施策が実を結び、店舗数103・資金量1兆1500億円と相銀界6位の規模にまで成長した<ref name="bank508">『銀行の墓碑銘』p.508</ref>。
 
その一方で、英蔵は私的な利益を追求し[[関連会社]]を次々と設立・買収した。[[総武流山電鉄]]や、後に内紛でクローズアップされることとなる[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]を買収した[[福岡野球]]のメインスポンサーとなる[[太平洋クラブ]]、海外での鉱山・木材・漁業などを手掛ける総武通商や[[総武都市開発]]、足立産業、馬毛島開発など、[[グループ企業]]は100社以上を数え、いわば「小宮山[[コンツェルン]]]」を形成した<ref>『銀行の墓碑銘』p.488</ref>。
 
ほかにも英蔵の私的な側近である正和恒産の安積正、旅友開発の作本宏芳、日誠総業の次郎丸嘉介、太陽開発の松尾秀登の"四天王"や、[[政治家]]・[[総会屋]]・[[右翼]]なども平和相銀と関係を持つようになり<ref>『銀行の墓碑銘』p.509</ref>、平和相銀は「闇の紳士の貯金箱」というのが金融界の評価であった<ref>『銀行の墓碑銘』p.485</ref>。