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一説に北魏の白水郡守の高幹(徐幹)の子として生まれたという。また一説に宦官の徐成の養子となり、若い頃は雇われ仕事をつとめたともいう。成長すると、身長は8尺あり、髭が美しく、感情を面に表さなかった。北魏の汝南王[[元悦]]が[[司州]]牧となると、その下で戸曹従事となった。[[528年]]([[建義 (北魏)|建義]]元年)、員外散騎常侍を初任とした。行台の[[于勁#子|于暉]]とともに[[羊侃]]を[[泰山郡|泰山]]に攻撃し、于暉の下で行台郎中をつとめた。給事中に任じられ、[[高歓]]と深く結びついた。高歓が[[晋州]]に入ると、召し出されて治中となり、行[[平陽郡]]事をつとめた。
 
[[531年]]([[普泰]]元年)、高歓が信都で起兵すると、隆之は大行台右丞となった。同年([[中興 (北魏)|中興]]元年)、御史中尉に任じられ、尚食典御を兼ねた。高歓の下で従軍して[[ギョウ|鄴]]を平定し、行[[相州]]事をつとめた。[[532年]](中興2年)、[[韓陵の戦い]]に参戦した。同年([[太昌]]元年)、驃騎大将軍・儀同三司の位を受けた。ときに隆之は南陽王[[文帝 (西魏)|元宝炬]]と酒席で争いを起こした。高歓の計らいで隆之は北道行台として出され、[[并州]][[刺史]]に転じ、平原郡公に封じられた。隆之は自ら700戸の減封を申し出て、自分の官位を4階下げて兄の高騰に譲ると、これを認められて、高騰は滄州刺史となった。[[534年]]([[永熙 (北魏)|永熙]]3年)、高歓が[[斛斯椿]]を攻撃すると、隆之は大行台尚書となった。清河王[[元亶]]が承制すると、隆之は侍中・尚書右僕射に任じられ、御史中尉を兼ねた。多くの工人を動員して、寺塔を建造したため、高歓の叱責を受けた。
 
同年([[天平 (東魏)|天平]]元年)、母が死去し、服喪のために任を解かれた。ほどなく并州刺史として再び起用され、入朝して尚書右僕射となった。当時の[[東魏]]では権勢家が良い農地を占めて、零細民は痩せた土地しか耕作できなかったことから、隆之が高歓に上申して、農地の交換を進め、格差の縮小につとめた。また営構大将をつとめて、鄴都の建設を取り仕切り、南城を増築した。漳水を鄴城の近くまで引き込み、長い堤防を築いて氾濫を予防させた。[[542年]]([[興和 (東魏)|興和]]4年)、[[司徒]]に進んだ。