「アヤソフィア」の版間の差分

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=== 宗教施設から博物館への転換 ===
[[第一次世界大戦]]でオスマン帝国は敗戦国となって滅び、代わって[[世俗主義]]的な[[トルコ共和国]]が建国された。オスマン帝国滅亡から12年後の[[1934年]]、トルコ共和国の建国者にして初代[[トルコの大統領|大統領]][[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]によってアヤソフィア・ジャミィは世俗化され<ref name=Hidaka31 />、翌年に[[博物館]]として公開した<ref>{{cite web|url=https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2020-07/angelus-santa-sofia-istanbul-20200712.html|title=教皇「アヤソフィアを思い、非常に悲しんでいる」|publisher=Vatican news|date=2020-07-12|accessdate=2020-08-01}}</ref>。長年敷かれていた[[カーペット]]が取り払われて大理石の床の{{仮リンク|オンファリオン|en|Omphalion}}(戴冠のための円形の場)や、除去された白漆喰が覆っていた多くのモザイク画が姿を現した。
 
しかし建物の構造には劣化が見られ、[[ワールドモニュメント財団]] (WMF) は1996年と1998年の「ワールド・モニュメント・ウォッチ」に記載された。建物の[[銅]]製の[[屋根]]には[[クラック]]が入り、そこから染み込んだ[[水]]がフレスコ画やモザイク画を伝って流れ落ちていた。同様に[[湿度|湿気]]は下からも上がってモザイク画に影響していた。さらに[[地下水]]が上がって記念的建造物内部の湿度上昇に結びつき、[[石材]]や[[塗料]]を脅かしていた。[[アメリカン・エキスプレス]]社の資金援助を受け、WMFは[[1997年]]から[[2002年]]にかけて修復のための費用を交付すると保証した。第一段階として、[[天井]]部分のひび割れ修繕と構造の安定化工事が、{{仮リンク|トルコ文化観光省|en|Ministry of Culture and Tourism (Turkey)}}参加の下で行われた。第二段階はドーム内部の保存のため、若い[[トルコ人]]博物館[[学芸員]]を雇用して訓練する機会を設け、モザイク画の保護体制を確立した。[[2006年]]までにWMFのプロジェクトは完遂したが、他の部分にも引き続き保存活動が求められている<ref>{{cite web|url=http://www.wmf.org/project/hagia-sophia |title=World Monuments Fund – Hagia Sophia |publisher=Wmf.org |date= |accessdate=4 December 2011}}</ref>。