「豆莫婁」の版間の差分
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[[ファイル:Map of The east barbarian 3.png|thumb|350px|[[5世紀]]頃の[[東夷]]諸国と豆莫婁の位置。]]
'''豆莫婁'''([[呉音]]:づまくる、[[漢音]]:とうばくろう、[[拼音]]:Dòumòlóu)は、[[6世紀]]から[[8世紀]]にかけて[[中国東北部]]の[[嫩江]]流域に存在した[[民族]]。[[北夫余]]の
==歴史==
北夫余が[[高句麗]]によって滅ぼされると、その生き残りは那河もしくは他漏河を渡ってそこに住み、豆莫婁となった。
[[唐]]代になると豆莫婁は達末婁と呼ばれ、[[開元]]11年([[723年]])に達末婁は達姤<ref>室韋の一種
==言語系統==
『[[魏書]]』『[[北史]]』に「旧北扶余である」と記されているため、[[扶余諸語]]に思われるが<ref>
*井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗
*『世界史小辞典』(2004年、山川出版社)「【夫余】トゥングース系の貊人が建てた。」
*『Yahoo!百科事典』「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名《村山正雄》。」
</ref>、『魏書』『北史』の[[室韋|失韋国]]の条に「語は[[庫莫奚]]
==地理==
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*[[高句麗]]
*[[室韋]]
*[[
*[[女真]]
*[[地豆于]]
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