「長谷寺銅板法華説相図」の版間の差分

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== 銅板研究 ==
[[ファイル:Hase-dera the cherry trees of the main hall of a Buddhist temple.jpg|thumb|right|200px|[[長谷寺#本堂|長谷寺本堂]]]]
長谷寺では長い間、本銅板を秘匿していたため、[[江戸時代]]後期の学者・[[狩谷エキ斎|狩谷&#x68ED;斎]]もその存在を知らなかったが、[[#1876年の火災|1876年(明治9年)の同寺・三重塔の火災]]に際して世の知るところとなった。一方、1828年([[文政]]11年)に銅板銘の[[拓本]]が秘かに採られており、[[伴信友]]はその拓本をもとに銘文を解読し、制作年を推定するなど本銅板研究の先駆をなした。その1828年当時、銅板の安置場所は三重塔ではなく、同寺・宝蔵であり、宝蔵に秘匿しておく事情があった([[#長谷寺の火災と銅板の安置場所]]を参照)。<ref name="kataoka2012_14"/><ref name="andou147">安藤更生 pp.147-148</ref><ref name="kataoka2010_27">片岡直樹・2010 pp.27-29</ref><ref name="ban656">伴信友 pp.656-657</ref><ref name="ban658">伴信友 p.658</ref>
 
造仏造塔の[[功徳]]は絶大であるという[[仏教|仏教思想]]を背景に、本銅板は[[天皇]]のために造立したと銘文に見え、その天皇を「[[#飛鳥清御原大宮治天下天皇|飛鳥清御原大宮治天下天皇]]」と表現しているが、[[飛鳥浄御原宮]]の宮号を冠した天皇の呼称は、[[天武天皇|天武]]と[[持統天皇|持統]]の両天皇に用いられる。また、銘文中の年紀「[[#歳次降婁漆菟|歳次降婁]]」は伴信友により[[戌|戌年]]と解読されたが、いつの戌年であるかは記されていない。そのような銘文内容のため、制作年の特定が難しく、大きな争点となった。ゆえに本銅板の研究の歴史は、主としてその制作年代の解明を目的とするものであった([[#銅板の制作年代]]を参照)。<ref name="kataoka2012_1"/><ref name="ooyama5">大山誠一 pp.5-6</ref>
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