「弓術」の版間の差分

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この数百年の間に和弓の構造は大きく進化<small>(詳細は[[和弓#歴史]]欄参照のこと)</small>、[[江戸時代]]初期には堅帽子ゆがけの[[発明]]<small>([[ゆがけ]]項参照のこと)</small>、さらに技術面では「角見」「弓返り」の技術が発明される等、この時期に弓術は現在の[[弓道]]に繋がる大きな進歩を遂げる。
 
[[平安時代]]の[[10世紀]]頃、[[武家]]が登場した後、騎射・弓術は武芸として弓馬の道とも言われた。騎射・弓術は実戦武術としての稽古も盛んに行われるなど、戦国中期までは戦での主戦力であり非常に重要となった。また、弓矢は邪を祓う力があるとされ、霊器・神器として、精神性の高いものとして扱われていた(現在でも[[破魔弓]]として信仰の名残や各地で弓道、[[流鏑馬]]神事が行われている)。[[鎌倉時代]]には「[[騎射三物]]」と言われる、[[流鏑馬]]・[[犬追物]]・[[笠懸]]が武芸の一つとして、また行事ごとにおいて盛んに行われたが、[[室町時代]]・[[安土桃山時代]]と時代が進むにつれ一時的に衰退する。戦国後期に「弓」が戦場の主戦力から後退するが、依然「弓射」は武芸として、心身鍛練の道として流派と射術は発展していく。[[江戸時代]]に入ると流派単位の活動が盛んになる。江戸初期には[[三十三間堂]]の軒下(長さ約120m)を射通す「[[通し矢]]」が次第に盛んとなっていった。[[寛文]]9年([[1669年]])[[星野茂則|星野勘左衛門]](日置流尾州竹林派)によって総矢数10,242本・通し矢数8,000本、貞享3年([[1686年]])[[和佐大八郎]](日置流紀州竹林派)によって総矢数13,053本・通し矢数8,133本という大記録が生まれる。江戸中期、[[徳川吉宗]]により一時衰退していた流鏑馬が奨励され、以降、復興した流鏑馬が全国の神社等で神事として行われる。
 
=== 明治維新~終戦・戦後 ===