「陳敏 (西晋)」の版間の差分

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[[307年]]、司馬越の軍諮祭酒を務める[[華譚]]は、陳敏が自ら官署を置いたと聞いた。さらに顧栄を始めとした江東貴族が、陳敏から官爵を受けたとも聞いた。華譚は顧栄らに書面を送り、陳敏に従うのを止めるよう強く諫めた。
 
陳敏は平凡な人物で、遠大な計略など無かった。一旦は江東に割拠したが、刑法も政治も明らかでなかったので、英俊な名士は服従しなかった。また、陳敏の子弟は凶暴で、多くの災いが降りかかった。[[周キ|周玘]]・顧栄らは、常に禍いを受けることを恐れており、華譚からの文書を受け取ると、みな深く後悔した。 周玘と顧栄は、密かに使者を出し、征東大将軍の劉準へ「兵を派遣して長江に臨み、陳敏を圧迫するならば、我らが内応します。」と伝えた。劉準は揚州刺史の劉機と寧遠将軍の[[衡彦]]らを歴陽に出陣させた。陳敏は、弟の陳昶と将軍の[[銭広]]に、烏江防衛を命じた。また弟の[[陳閎]]を歴陽郡太守に任じ、牛渚の防衛に当たらせた。
 
銭広の家は[[長城]]にあり、周玘と同郷であった。周玘は密かに使者を送り、銭広に陳昶を殺害するよう指示した。銭広は配下の[[何康]]を派遣し、陳昶へ書を送り「私は配下の兵を投げ出してでも、あなたの指揮に入りたい。」と述べた。陳昶が頭を下げて書を読んでいる最中に、何康は刀を振るって陳昶を斬った。また、州内では既に陳敏を殺したと触れ回り、逆らうものは三族皆殺しに処すと告げた。銭広は先に兵を勒して、朱雀橋に駐屯し橋の南に布陣した。周玘と顧栄は甘卓の説得に当たり、甘卓は遂に陳敏に背くことを決めた。陳敏は1万人余りの兵を率いて、甘卓と交戦したが、まだ河を渡る前に顧栄が白羽扇を用いて指揮を取り、陳敏軍を潰滅させた。陳敏は単騎で東に逃げて、江乗に至ったが、義兵に斬り殺された。彼の母と妻子は、みな処刑された。ここにおいて会稽諸郡は一気に立ち上がり、陳敏の弟たちを全員殺した。