「李俊」の版間の差分

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その後、梁山泊は反乱討伐のため各地を転戦、李俊も[[田虎]]戦ではその本拠を水攻めで下し、[[王慶 (水滸伝)|王慶]]戦では落ち延びる王慶を捕らえる大手柄を立てる。しかし、朝廷は一向にその功に報いず、相変わらず奸臣たちが幅を利かせていた。李俊たち水軍衆の怒りは爆発し、[[呉用]]に「このままではボロ雑巾のように捨てられるだけだ。梁山泊に戻って楽しくやろうじゃないか。」と宋江に掛け合ってもらうよう相談した。しかし呉用は、宋江の決意は固いだろうから無理だろうと諭し、事実宋江は「盗賊に逆戻りするわけには行かぬ」と表明したため、計画は頓挫した。このことにより、李俊は梁山泊に半ば絶望したと思われるが、その後も義理から従った。
 
[[方臘 (水滸伝)|方臘]]攻めの際、[[太湖]]周辺に住む、4人の緑林の好漢、費保・倪雲・上青・狄成に出会って(最初は、方臘軍と間違って捕らわれた)、彼らと義兄弟の契りを結んだ時、「方臘攻めが終了して手柄を立ててもいずれは[[高キュウ|高俅]]らに疎まれて、出世はできない。もしかしたら、命まで奪われるかもしれない。それに、自由気ままな生活も出来ない。それよりは、自分たちで新天地を探して、自由気ままに暮らそうではないか」と提案されて、大いに感じ入ったところがあった李俊は、方臘攻めが終わった後、[[開封]]への道中、病気の振りをして童威や童猛と残って、上青らとともに暹羅(ただしこれは現在の[[タイ王国]]の位置ではなく、『[[水滸後伝]]』には澎湖列島の向かいの島々とある)に出航して、そこで王になったと『水滸伝』本伝に書かれている。このわずか1、2行の文を膨らませて書かれたのが『水滸後伝』である。
 
== 関連項目 ==
197,012

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