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その後、張清は葉清と共に田虎を襄垣に誘い出して、それを捕縛する。さらに田虎の本拠地である威勝も、田虎の偽者を仕立てて攻め込んだ瓊英の手によって陥落する。田虎の弟・田豹、田彪は捕らえられ、田虎の嫡男・田定は自殺したが、田定の屍骸が運ばれてくると瓊英は、その首を掻き切ると死体をズタズタに切り裂いて恨みを雪ぐ。かくして両親の復讐を遂げた瓊英は、東京へ凱旋する梁山泊軍に従い田虎兄弟を護送していくが、この時朝廷からはその貞節を讃えられ、'''貞孝宜人'''に封じられることとなる。田虎と弟たちが[[凌遅刑]]を宣告されると、両親の肖像を刑場に掲げ、田虎の刑が執行されるとその血を両親の霊へと手向けた。
 
田虎の乱が平定されると、梁山泊軍は更に淮西地方で反乱を指導している[[王慶 (水滸伝)|王慶]]の討伐を朝廷より命じられ、引き続いて瓊英もこれに従軍する。ここでも瓊英は、張清と並んで王慶の后・段三娘を捕らえるなどの手柄を挙げたが、続く[[方臘 (水滸伝)|方臘]]討伐では妊娠中で病臥していたこともあり従軍できず、この戦いで陣没する張清とはここで今生の別れを迎えることとなった。独松関で方臘軍の[[レイ天閏|厲天閏]]に夫が殺されたと聞くと深く嘆き悲しみ、葉清夫妻と共に独松関まで出向くと、張清の棺を彼の故郷である彰徳府に守って行き、本葬した。寡婦となった瓊英は、張清の遺児・張節を武人として育て上げ、[[金 (王朝)|金国]]との戦いで[[斡啜|兀朮]]四太子を破るなど目覚しい手柄を挙げて官爵を授けられた息子に孝養を尽くされ、天寿を全うした。
 
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