「文禄・慶長の役」の版間の差分

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ほか
|commander2 = '''明軍'''
兵部尚書[[邢玠]]('''総督''')<br>[[都察院]]右僉都御史[[楊鎬]]→[[万世徳]]<br>'''提督'''[[麻貴]]<br>禦倭総兵官[[劉テイ (明)|劉綎]]<br>禦倭総兵官[[董一元]]<br>水帥[[陳リン|陳璘]]<br>副総兵[[陳サン|陳蠶]]<br>副総兵[[鄧子龍]]<br>左協軍大将[[李如梅]]<br>'''朝鮮軍'''<br>都元帥[[権慄]]<br>三道水軍統制使[[李舜臣]]→[[元均]]→[[李舜臣]]<br>全羅右水使[[李億祺]]<br>義兵大将[[郭再祐]]<br>晋州牧使[[金時敏]]
|strength1 = 141,500人<ref>非戦闘員含む。{{Harvnb|中野|2008|loc=p.192}}</ref>
|strength2 = (諸説あり)
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慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去して以降、幼児の[[豊臣秀頼]]が後を継いだ豊臣政権では、大名間の権力を巡る対立が顕在化し、政治情勢は不穏なものとなっており{{refn|group=注|豊臣秀吉の死後まもなく、徳川家康を敵対勢力に想定して、毛利輝元は増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家の四奉行と連携し、不測の事態に備えて上方方面に大軍を終結させるなど、軍事衝突さえ起こりかねない状況下にあった<ref>光成準治『関ヶ原前夜』日本放送出版協会 (2009)</ref>。}}、もはや対外戦争を続ける状況にはなかった。そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令された。秀吉による慶長4年(1599年)の再出兵計画は白紙となった。
 
慶長3年(1598年)10月下旬、帰国命令を受領した小西行長は、明軍の陸将[[劉テイ (明)|劉綎]]との交渉により無血撤退の約束を取り付け、人質を受領して撤退の準備に取り掛かっていた。ところが、古今島に退却していた明・朝鮮水軍は、日本軍撤退の動きを知ると、11月10日再び順天城の前洋に現れ海上封鎖を実施して海路撤退の妨害を行った。そこで小西行長は、明水軍の[[陳リン|陳璘]]と交渉や買収で無血撤退の約束を取り付け、人質も受領するが、この頃日本側撤退の内情(秀吉の死)は明・朝鮮側も知るところとなり、実際には明・朝鮮水軍は後退せずに海上封鎖を継続した。
 
小西軍の脱出が阻まれていることが確認されると泗川から撤退してきた[[島津義弘]]、[[立花宗茂]]、[[立花直次|高橋直次]]、[[寺沢広高]]、[[宗義智]]、[[小早川秀包]]、[[筑紫広門]](上野介広門の子・主水正広門)<ref>『柳川市史・史料篇V・近世文書』(前編)P.240、佐田家文書A12より、秀包と広門の参戦が判明。</ref>らの諸将は救援に向かうために水軍を編成して進撃した。島津義弘、立花宗茂らの救援軍が近づくのを知ると[[明]]・朝鮮水軍は順天の海上封鎖を解いて迎撃を行い、両軍は11月18日夜間、露梁海峡において衝突する。
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:[[祖承訓]]、[[宋応昌]]、[[李如松]]、[[千萬里]]、[[李如柏]]、[[李如梅]]、[[李寧 (明)|李寧]]、[[査大受]]、[[楊元]]、[[張世爵]]、[[沈惟敬]]
*慶長の役参戦主要武将
:[[麻貴]]、[[楊鎬]]、{{lang|zh-hant|[[劉テイ (明)|劉綎]]}}、[[董一元]]、{{lang|zh-hant|[[陳リン|陳璘]]}}、{{lang|zh-hant|[[鄧子龍]]}}、[[邢玠]]、[[李如梅]]、[[高策]]、[[李芳春]]
;朝鮮側
*王族:[[宣祖]]、[[光海君]]、[[臨海君]]、[[順和君]]
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**10月31日 小西行長・島津義弘、全軍撤退を確認
**11月 明軍、秀吉の死を知り、休戦を反故とす
**11月15日 日本軍、撤兵を開始<br>  明将[[陳リン|陳璘]]、人質を出すが兵を退かず
**11月18日 [[露梁海戦]]
**11月19日 小西行長、巨済島に無事脱出