「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」の版間の差分

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症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「[[粟粒熱|急性粟粒疹熱]]」とされる。実際の死因は「[[リウマチ熱|リューマチ性炎症熱]]」であったと考えられている<ref group="注釈">ピーター・J・デイヴィーズは、モーツァルトは以前にかかった[[伝染病]]の影響で慢性的な[[腎臓病]]を患っており11月に再び伝染病にかかったため、症状が急激に悪化して死に至ったとしている。ランドンの前掲書、268頁を参照。</ref>。リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹患したとされている<ref group="注釈">旅行先で病に伏すことが少なくなかったことが手紙や記録に残されている。これは当時の医療技術が未熟であったがために幼児の死亡率が高かったことと、[[道路]]の[[舗装]]が不完全であったがために[[馬車]]の振動が健康を脅かしていったことが背景にある。罹患したリューマチに終生悩まされ、この持病のため体格が小柄になり、さらに直接の死因にまでなってしまったとも考えられた。</ref>。また、医者が死の直前に行った[[瀉血]]が症状を悪化させたとも言われる。
 
モーツァルトは[[1791年]]7月に、自分がアクア・トファーナ(別名ナポリ水とも呼ばれた[[亜ヒ酸|亜砒酸]]が主要成分の水溶液で、当時の美顔、美白薬だが毒としても有名だった)で毒殺されかけていると考え、それを妻に伝えている。実際、妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。当時は遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられており、モーツァルトの遺体がひどくむくんでおり、それによって後述の、サリエリに関する噂が一気に広まった<ref group="注釈">これは現在証明は困難であるが、実際、当時の売れなかった二流の音楽家達は彼を非常に敵対視していたため、可能性が再浮上している。</ref>
 
また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。[[1820年]]ごろになると、ウィーンでは「[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]を担ぐイタリア派と[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]を担ぐドイツ派の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうとして、数多くの背任をまた非難されることになった。この噂にサリエリは[[1825年]]に死ぬまで悩まされた<ref group="注釈">この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』([[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]])や『[[アマデウス]]』などの作品が作られた。</ref>。