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'''チャールズ・タイソン・ヤーキス'''([[英語]]:'''Charles Tyson Yerkes''' {{IPAc-en|ˈ|j|ɜːr|k|iː|z}} {{respell|YUR|keez}};、[[1837年]][[6月25日]] – [[1905年]][[12月29日]])はアメリカの[[起業|起業家]]、[[投資家]]である。[[シカゴ]]と[[ロンドン]]の[[公共交通機関]]の発展に貢献した。
 
==フィラデルフィア時代==
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収監を免れるため、ヤーキスは2人の有力なペンシルベニア州の政治家に[[脅迫状]]を送った。当初脅迫状は効果を発揮しなかったが、この政治家2人の悪評が広まり、のちの大統領[[ユリシーズ・グラント]]などの指導的政治家がヤーキスの暴露により次期選挙に悪影響が及ぶことを恐れるようになった。ヤーキスは非難を撤回することで免責となる提案を受け、7か月服役したのちこれを受け入れて釈放された<ref name="britannica.com">{{cite web|url=https://www.britannica.com/biography/Charles-Tyson-Yerkes|title=Charles Tyson Yerkes - American financier|website=Encyclopedia Britannica|accessdate=2020-07-29}}</ref>。
 
==シカゴ時代==
[[File:Carter Henry Harrison caricature cph.3g06778.jpg|thumb|upright|イリノイ州知事{{仮リンク|ジョン・ライリー・ターナー|en|John Riley Tanner}}が署名した"Allen bill"と呼ばれるヤーキスにシカゴの公共交通機関の運営許可を与える法案に反対するシカゴ市長{{仮リンク|カーター・ハリソン・ジュニア|en|Carter Harrison, Jr.}}を描いた[[1899年]]の[[風刺]]画]]
[[1881年]]、ヤーキスは離婚するため[[ダコタ準州]][[ファーゴ (ノースダコタ州)|ファーゴ]]を訪れ、その年の後半に離婚したうえ[[シカゴ]]に転居した。ヤーキスはシカゴで株と穀物のブローカーを開業、すぐにシカゴの公共交通機関整備計画に参画するようになった。[[1886年]]、ヤーキスと彼の協力者たちは複雑な金融取引で{{仮リンク|北シカゴ路面鉄道|en|North Chicago Street Railway}}を買収、同様の手段でシカゴ北部及び西部の[[路面電車]]路線網の大半を手中に収めた。この過程ではヤーキスは[[賄賂]]や[[脅迫状]]もいとわなかった<ref name="britannica.com"/>。
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==美術品収集==
[[File:Bouguereau 1892 painting "Invading Cupid's Realm".jpg|thumb|[[1893年]]の[[シカゴ万国博覧会 (1893年)|シカゴ万国博覧会]]のあとヤーキスが購入した[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]の[[1892年]]の絵画"Invading Cupid's Realm"<ref>{{cite web|url=http://columbus.gl.iit.edu/dreamcity/00044012.html|title=The Dream City: Invasion of Cupid's Realm ("The Wasp's Nest")|website=columbus.gl.iit.edu|deadlinkdate=2020-07-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010516025251/http://columbus.gl.iit.edu/dreamcity/00044012.html |archivedate=2001-05-16|accessdate=2018-06-02}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://archive.org/stream/catalogueofpaint02yerk#page/74/mode/2up|title=Catalog nr. 13 in Yerkes art catalog (Volume II)|accessdate=2020-07-29}}</ref>]]
シカゴ在住中、ヤーキスは{{仮リンク|サラ・タイソン・ハロウェル|en|Sarah Tyson Hallowell}}([[1846年]] [[1924年]])の助言により貪欲に美術品を収集した。[[1893年]]の[[シカゴ万国博覧会 (1893年)|シカゴ万国博覧会]]の後、ハロウェルはヤーキスにフランスから出展された[[オーギュスト・ロダン]]の作品を購入する様持ち掛けた。物議をかもすことを恐れたヤーキスは一旦購入を断ったが、すぐに変心して2つの[[彫刻]]「オルフェウス」と「キューピッドとプシュケ」をシカゴのマンションに飾るため購入した。この2つの彫刻はロダン作品として初めてアメリカ人収集家に売られたものである。
 
ヤーキスは[[アカデミー・フランセーズ]]の[[画家]][[ジャン=レオン・ジェローム]]の「{{仮リンク|ピュグマリオンとガラテア (ジェローム)|en|Pygmalion and Galatea (Gérôme painting)|label=ピュグマリオンとガラテア}}」をはじめ、[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]の作品や[[バルビゾン派]]の画家の作品も収集した。[[1904年]]の[[ニューヨーク]]居住時代、ヤーキスは2巻からなる自身が収集した美術品のカタログを''Catalogue of paintings and sculpture in the collection of Charles T. Yerkes, esq.''として刊行した。
 
==ロンドン時代==
[[1900年]]8月、ヤーキスは[[ロンドン]]を訪れ、地下鉄の計画線を視察、[[ハムステッド・ヒース]]からロンドン市街を眺望したのち[[ロンドン地下鉄]]の形成に参画した。ヤーキスは[[ディストリクト鉄道]]、建設中だった[[ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道]]、[[チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道]]、[[グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道]]を支配するため[[ロンドン地下電気鉄道]]を設立した{{sfnp|The Economist|2014}}。新線建設とディストリクト鉄道[[鉄道の電化|電化]]の資金をアメリカ時代と同様複雑な金融取引を駆使して調達した。ヤーキスの人生最後の成功のひとつとして、ロンドン地下鉄事業への[[ジョン・モルガン]]の参入を阻止したことがあげられる{{sfnp|The Economist|2014}}。ヤーキスは自身が手掛けたロンドン地下鉄各路線の開業を見ることはなかった。今日の[[ベーカールー線]]の一部であるベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道、[[ピカデリー線]]の一部であるグレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道が開業したのはヤーキスの死後数か月が経過した[[1906年]]であり、[[ノーザン線]]の一部となるチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道が開業するのはその翌年夏である。
 
==死と遺産==
[[File:Charles Tyson Yerkes by Jan van Beers.jpg|thumb| [[ヤン・ファン・ベールス (画家) |ヤン・ファン・ベールス]]が[[1893年]]に描いたヤーキスの肖像画]]
ヤーキスは1905年に{{仮リンク|腎臓病|en|kidney disease}}のためニューヨークで死んだ。ヤーキスの生涯は[[セオドア・ドライサー]]の[[小説]] 「{{仮リンク|フィナンシエ|en|The Financier}}」、「{{仮リンク|タイタン (小説)|en|The Titan (novel)|label=タイタン}}」、「{{仮リンク|ストイック (小説)|en|The Stoic|label=ストイック}}」の骨格となり<ref name="britannica.com"/>、ヤーキスは物語の中で架空の人物フランク・コウパーウッドという架空の人物として描かれている。
 
[[月]]の[[クレーター]] {{仮リンク|ヤーキス (クレーター)|en|Yerkes (crater)|label=ヤーキス}}は彼の名にちなむものである。
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{{s-bef|before=New Position新規役職}}
{{s-ttl|title=会長<br>ロンドン地下電気鉄道|years=1902-1905 }}
{{s-aft|after=Sir {{仮リンク|エドガー・スパイヤー|en|Edgar Speyer}}}}
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