「白虎隊」の版間の差分

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[[画像:AizuByakkotai.jpg|thumb|right|会津藩殉難烈婦碑]]
[[画像:Aidu Byakkotai Monument by Mussolini.jpg|thumb|right|ローマ市寄贈の碑]]
* 白虎隊士墓のある[[飯盛山 (福島県)|飯盛山]]には、戊辰戦争時に自刃した武家女性や討ち死にした婦女子約200名の霊を慰める石碑の「会津藩殉難烈婦碑」がある。墓域の整備に際しては[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]の尽力があった<ref>[[花見朔巳]]編『男爵山川先生伝』444-445頁</ref>。また、1935年に[[駐日ドイツ大使館]]員の[[ハッソー・フォン・エッツドルフ]]([[:de:Hasso von Etzdorf|Hasso von Etzdorf]])<ref>パイロットの[[マルガ・フォン・エッツドルフ]]のいとこに当たる。</ref>が飯盛山を訪れた時に、白虎隊の少年たちの心に深い感銘を受けて個人的に寄贈した[[記念碑]]や、1928年に[[ベニート・ムッソリーニ]]が寄贈したという[[古代ローマ]]時代の[[ポンペイ]]から発掘された宮殿の石柱による記念碑がある。なおムッソリーニが記念碑を寄贈するに至ったのは、[[下位春吉]]という人物が当時の若松市の市長に対して「ムッソリーニは白虎隊の事績に感激し、記念碑を送ることを計画している」と述べたことがきっかけとなっている。とはいえ実際にはそのような計画は存在しておらず、下位による創作話であった。しかしこの話題が新聞に掲載され、[[幣原喜重郎]]や元隊員でもある[[山川健次郎]]ら名士からの賛助も与えられたため、実際に記念碑を建てる必要が生じた。そこで[[外務省]]からムッソリーニへ打診を行い、建立に至ったという経緯が存在している<ref>[[福家崇洋]]『日本ファシズム論争 大戦前夜の思想家たち』河出書房新社、2012年、46‐52頁。</ref>。これらは[[第二次世界大戦]]後、[[進駐軍]]により破壊されたが、後に一部が復元された。
* この記念碑の建立に際し建設会が組織され、[[高松宮宣仁親王]]が総裁、[[近衛文麿]]が会長、[[田中義一]]が名誉会長、[[徳川頼貞]]、[[大倉喜七郎]]が理事に就任し、地元では当時の若松市長で会津弔霊義会理事長でもあった[[松江豊寿]]等が活動した<ref>『男爵山川先生伝』446-447頁</ref>。
* 北海道久遠郡せたな町に隊士の有賀織之助、永瀬雄次の従兄弟である[[丹羽五郎 (開拓者)|丹羽五郎]]が開拓した丹羽(村)があり、飯盛山を遥拝するための「白虎隊遥拝所」がある。