「三宅重利」の版間の差分

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天正10年([[1582年]])、[[本能寺の変]]の時は[[勝竜寺城]]の[[留守居]]役だったが、家臣の[[三宅六郎太夫]](あるいは姥)に抱かれて京都に逃れ、父の知り合いである町人・大文字屋のもとで育った。12歳で[[鞍馬寺]]に入るも、翌年には叔母の細川ガラシャ(秀林院)を頼って細川氏領国の[[丹後]]に移り、以後[[細川氏|細川家]]の庇護を受けた(のち三宅与助と名を改め、300石を遣わされた)。
 
のちに細川家を辞去し、父・明智秀満の元家臣であった[[天野源右衛門]]([[安田国継|安田国継(安田作兵衛)]]が改名)の縁により300石で唐津藩([[寺沢氏|寺沢家]])初代藩主の[[寺沢広高]]に仕えた。[[元和 (日本)|元和]]7年([[1621年]])には2代藩主[[寺沢堅高]]によって唐津藩の飛地であった[[天草]]を統括する富岡城の[[城代]]に取り立てられた(知行は計1万500石)。
 
元は[[キリシタン]]だったが[[棄教]]し、寛永14年([[1637年]])の[[島原の乱]]では富岡城代として[[天草四郎]]率いる[[一揆]]勢と戦った。しかし、[[本渡]]での戦いに敗れて敗走し、のち自刃した。首は一揆勢によって獄門に処されたという。