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'''戊辰戦争'''(ぼしんせんそう、[[慶応]]4年/[[明治]]元年 - 明治2年([[1868年]] - [[1869年]]))は、<nowiki>[[明治維新]]</nowiki>の際[[王政復古 (日本)|王政復古]]を経て[[明治維新#中央政府|明治政府]]を樹立した[[薩摩藩]]・[[長州藩]]・[[土佐藩]]らを中核とした新政府軍と、[[佐幕|旧幕府勢力]]および[[奥羽越列藩同盟]]が戦った[[日本]]の[[内戦]]。名称は慶応4年/明治元年の干支が[[戊辰]]であることに由来する。
 
明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の[[交戦団体]]が消滅したことにより、列強が条約による内戦への局外中立を解除し、これ以降、同政府が日本を統治する合法[[政府]]として国際的に認められることとなった{{Sfn|原口|1963|p=239}}。
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[[Image:Satsuma-samurai-during-boshin-war-period.jpg|300px|right|thumb|戊辰戦争中の薩摩藩の藩士([[着色写真]])。[[フェリーチェ・ベアト]]撮影]]
 
戊辰戦争に関する著書をもつ研究者の一人、石井孝は、明治新政府側の立場から、戊辰戦争をによって次のように規定されている。
「日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争」([[原口清]]){{Sfn|原口|1963|p=267}}、「将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争」([[石井孝]]){{Sfn|石井|1968|p=46}}
 
石井はさらにこれを次の三段階に分けた。
#「将来の絶対主義的全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」([[鳥羽・伏見の戦い]]から[[江戸開城]])
#「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・[[奥羽越列藩同盟]](遅れた封建領主の緩やかな連合体)との戦争」([[東北戦争]])
#「封禄から離れた旧幕臣の救済」を目的とする「[[士族反乱]]の先駆的形態」([[箱館戦争]])
 
薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、[[トーマス・ブレーク・グラバー|トーマス・グラバー]](グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。また旧幕府は[[フランス第二帝政|フランス]]から、奥羽越列藩同盟・会庄同盟は[[プロイセン王国|プロイセン]]から軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。戦争が早期に終結したため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。
石高が全国第3位の仙台藩を上回る“石高が全国第2位”の大国・薩摩藩の「国父(こくふ)」島津義久(薩摩藩主)島津忠義(茂久はの父)、の”にほんの溶鉱炉はと洋式兵器工場を造った母違いの兄、薩摩藩主・島津斉彬(ありあきら)が父・島津斉興(なりおき)および斉興の側室・お由羅に毒殺されると、父の後継者として薩摩藩の支配者となり、1862年藩島津久光は孝明天皇の勅命に従い、摩軍を率いて首都)京都へ上洛し島文久の改革と呼ばれる政治改革を行った義(こうして島津久光”、幕末日本における政局の、中心人物の一人に躍り出たに更に島津久光は、生麦事件の報復として攻めてきた、ギリス軍と薩英戦争で戦って引き分ける(海軍)と、イギリスとの和解により攘夷(外敵を討つ)の立場を一転させ、今度はイギリスによる日本(ア侵略の尖兵(手先)となり、イギリスの軍需企業・グラバー商会([[トーマス・ブレーク・グラバー|トーマス・グラバー]])から最新式の小銃などの武器を大量に購入し、軍事力を強化することに成功した。一方更にの旧幕府は、[[フランス第二帝政|フランス]]から軍事支援を受けていた。鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜の旧幕府軍が明治新政府軍に敗れたあと、明治新政府軍が(西郷隆盛と勝海舟の会談で)江戸総攻撃を中止したのも、首都圏での戦争で対日貿易に悪影響がでることを恐れたイギリスが、明治新政府に戦争をしないよう指示をし、(明治天皇・薩長同盟明治新政府がそれ従っためである。
なお、地方政権(北日本政府)である奥羽越列藩同盟(最高機関の公儀府はせんだのいは宮城県市)もドイツるツ人の商スネルからから旧式の小銃などの器を購入したが、それはイギリスのグラバー商会のような欧米列強の政府による軍事支援ではくめ、意味は全く異なる戊辰戦争で敗れた
 
会津はスネから領民の集団に海外移費勧められ、スネルに多額の移住資金を渡し
 
詐の被害に遭っている。
 
戊辰戦争開始までの経緯および個々の事象については、[[幕末]]・[[明治維新]]および個々の語句を参照。
 
== 鳥羽・伏見の戦い ==
教科書をはじめとする日本史(の学会)では、2000年代後半まで、”戊辰戦争の最大の戦い”である「東北戦争」が、”存在しないに等しい状態で全に無視”されてきた。そしてこの”歪んだ歴史教育”が、今日もなお続いている。戊辰戦争の東北地方における戦争として教科書を含むほぼ全ての歴史出版物に書かれている戦いは、会津若松城に籠城した会津軍を新政府軍が攻撃して降伏させた戦い、「会津戦争」だけである。一言で言えば、日本史において戊辰戦争は、”最大規模、最大範囲、最長期間の戦争である東北戦争”を無視し、(たった半日の)羽伏見の戦い、北越戦争、会津戦争、函館戦争の、4つの戦争だけになってしまっている。
[[ファイル:Yodokoj7.jpg|thumb|200px|戊辰戦場址碑]]
 
[[ファイル:Kinki (1868).jpg|thumb|right|200px|戊辰戦争で新政府軍が用いた錦旗([[錦の御旗]])の模写図。]]
なお、戊辰戦争で明治新政府(明治天皇・薩長軍)から最も厳しい処分を受けたのは、京都守護職として中央政界を一時支配した松平容保の会津藩ではなく、奥羽越列藩同盟(北日本政府)を樹立し、更に急死した孝明天皇の弟・輪王寺宮を仙台で東東武天皇」として即位させて”せん朝廷だを樹立し、敗戦後い家老5人を殺され、”日本第3位の石高”62万石を28万石に半減させられた、伊達慶武天皇として即位させて”仙台朝廷”を樹立し、敗戦後、家老5人を殺され石高を”日本第3位”の62万石から28万石に半減させられた、伊達慶邦の仙台藩である。
{{main|鳥羽・伏見の戦い}}
 
 
 
慶応3年(1867年)10月14日に江戸幕府第15代将軍・[[徳川慶喜]]は日本の統治権返上を[[明治天皇]]に奏上、翌15日に勅許された([[大政奉還]])。討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、明治天皇が命令していないという”偽勅許”がある岩倉具視が発した「討幕の密勅」は、諸大名が徳川慶喜を撃する理由がなくなったため無力化された。大政還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したため倒幕の意味はなくなり、薩摩側も東国に於ける挙兵の中止命令を江戸の薩摩藩邸に伝えた。慶喜は10月24日には[[征夷大将軍]]職の辞任も朝廷に申し出る。朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。慶喜の狙いは、[[公議政体論]]のもと[[徳川宗家]]が首班となる新体制を作ることにあった。
 
しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、[[薩摩藩]]、[[越前藩]]、[[尾張藩]]、[[土佐藩]]、[[安芸藩]]は12月9日に御所の門の警備を支配するクーデターを起こし、朝廷を軍事制圧下に置いて事実上人質に取ったの摩藩・長州藩と結託していた下級貴族の[[岩倉具視]]が[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]を発し、幕府廃止と新体制樹立を宣言した。新体制による朝議では、薩摩藩藩主の父島津久光の主導によりって、徳川慶喜に対し[[内大臣]]職辞の職と幕府領地の朝廷への返納を決定した(辞官納地)。また、[[禁門の変]](蛤御門の変)で<nowiki>[[孝明天皇]]</nowiki>が住む<nowiki>[[御所]]</nowiki>を砲撃し、孝明天皇から<nowiki>[[朝敵]]</nowiki>に指定されていた<nowiki>[[長州藩]]</nowiki>藩主・<nowiki>[[毛利敬親]]</nowiki>(たかちか)は、14歳の<nowiki>[[明治天皇]]</nowiki>によって朝敵の指定を解除された。この"孝明天皇の意思に反する決定”によって、毛利敬親の長州藩は旧幕府の徳川慶喜を倒すべく、中央政局に返り咲いた。急死(変死)した当時から”毒殺説"が有力だった孝明天皇は、”欧米列強の侵略者を討つ”という[攘夷]]を望んでいたが、”天皇を敬い外国の侵略者を討つ””という<nowiki>[[尊王攘夷]]</nowiki>論を主張していた<nowiki>[[長州藩]]</nowiki>や<nowiki>[[薩摩藩]]</nowiki>は、"自分達の都合に"よって尊王攘夷論から<nowiki>[[尊王討幕]]</nowiki>論へと立場を変えた。更に薩摩藩と長州藩は、孝明天皇が征討を望んでいた欧米<nowiki>[[列強]]</nowiki>の筆頭イギリスと結託すると、薩摩藩と長州藩にとって孝明天皇は、”尊王とは正反対の邪魔な存在"になった。このような状況のなか天皇孝明は急死(変死)し、孝明天皇の妾である<nowiki>[[中山慶子]]</nowiki>(よしこ)の息子、14歳の明治天皇が新天皇として即位し、日本の政局は180度激変した。なお、中山慶子の兄は長州藩と結託した攘夷派の貴族・中山忠光で、忠光は天誅組の変を起こして幕府軍に鎮圧され、長州藩へ逃れたが長州で暗殺された。同じく、中山慶子の父である貴族・中山山能(ただやす)は、岩倉具視と同様に孝明天皇の怒りをかって失脚したが、明治天皇が即位すると明治新政府の中枢である<nowiki>[[議定]]</nowiki>に就任し、薩摩藩・島津久光の主導で開催され徳川慶喜の辞官納地を決定した<nowiki>[[小御所会議]]</nowiki>で、司会を務めた。徳川慶喜は辞官納地を批判し、諸外国との交渉は自分の任であると宣言した。新政府内においても[[山内容堂]](土佐藩)・[[松平春嶽|松平慶永]](越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ[[議定]]へ就任することが確定するなど、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。
 
一方、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、偽勅説がある岩倉具視が発した討幕の密勅は事実上取り消され、それが江戸薩摩藩邸に伝えられた。大政奉還によって自分への軍事攻撃の大義名分を潰した徳川慶喜は、有力な諸大名たちによる諸侯会議の創設と自らの議長就任による政権保持を目指した。これに対し島津久光の薩摩藩は、西郷隆盛を使って武力討幕を狙い、薩摩藩士を中心とするテロリスト(志士)たちが江戸で放火・強盗・暴行などの犯罪行為を繰り返して騒乱を起こし、徳川慶喜の旧幕府を挑発した。更に薩摩藩側のテリストたちは、江戸市中警護役の役職にある庄内藩藩主・酒井忠篤(ただざね)の配下にある新徴組の屯所(詰め所)を襲撃(銃撃)し、薩摩藩邸に逃亡したこのとき日本は、江戸の治安は新徴組を支配する江戸市中警護役である庄内藩(山形県)藩主が・井忠篤担い・京都の治安は新選組を支配する会都守護職の津役職にある会津の福島県)藩主・平松容保がかたもり)担がっていた。
 
酒井忠篤および旧幕府老中の稲葉正邦(淀藩藩主)は薩摩藩邸の攻撃を決断し、薩庄内軍を主力とする旧幕府勢力は薩摩藩邸を攻撃して焼失させた。その結果
 
酒忠篤の庄内藩は島津久光および西郷隆盛らの薩摩藩から”逆恨み”された。徳川慶喜の旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗れて降伏すると
 
松平容と同様に薩摩藩・長州藩の明治新政府からの攻撃を恐れた酒井忠篤は、国元(本拠地)である東北地方の庄内へ避難した
 
=== 開戦に至る経緯 ===
酒忠篤の予想通り、明治天皇の明治新政府は西郷隆盛の先輩である薩摩藩士大山綱良()初代鹿児島県令として西南戦争で処刑を奥羽鎮撫総督府の下参謀(しもさんぼう)に任命し、庄内藩を討つため摩軍
[[四侯会議]]の崩壊以後、薩摩藩は長州藩と共に武力倒幕を志向するようになり、朝廷への工作を活発化させた。慶応3年10月13日、14日に[[討幕の密勅]]が薩摩と長州に下される。これを受け、西国と東国で同時挙兵する構想が練られていた。
 
しかし、慶応3年(1867年)10月14日に江戸幕府第15代将軍・[[徳川慶喜]]は日本の統治権返上を[[明治天皇]]に奏上、翌15日に勅許された([[大政奉還]])。討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、明治天皇が命令していないという”偽勅許”がある岩倉具視が発した「討幕の密勅事実上諸大名が徳川慶喜を撃する理由がなくなったため無力化取り消された。既に大政還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したため倒幕の意味はなくなり、薩摩側も東国に於ける挙兵の中止命令を江戸の薩摩藩邸に伝えた。慶喜は10月24日には[[征夷大将軍]]職の辞任も朝廷に申し出る。朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。慶喜の狙いは、[[公議政体論]]のもと[[徳川宗家]]が首班となる新体制を作ることにあったと言われる
出陣した。羽貴族3人を旗頭に立てた総督府こと政府軍()薩摩軍しは、
 
しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩([[薩摩藩]]、[[越前藩]]、[[尾張藩]]、[[土佐藩]]、[[安芸藩]])は12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、公家の[[岩倉具視]]が[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]を発し、幕府廃止と新体制樹立を宣言した。新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し[[内大臣]]職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、[[禁門の変]](蛤御門の変)以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。こうして、禁門の変では[[孝明天皇]]がいる[[御所]]に向かって砲撃をし、孝明天皇から[[朝敵]]の宣告を受けていた[[長州藩]]藩主・[[毛利敬親]]は、[[明治天皇]]により朝敵の認定を解除された。
 
慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため、京都・[[二条城]]から[[大坂城]]に移った。経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたことは、その後の政局において幕府側に優位に働いた。12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても[[山内容堂]](土佐藩)・[[松平春嶽|松平慶永]](越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ[[議定]]へ就任することが確定するなど、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。
険み
 
一方、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上取り消され、それが江戸薩摩藩邸に伝えられたが、[[相楽総三]]率いる江戸薩摩藩邸の攘夷派浪士達はこの命令を無視し、[[出流山事件|出流山]]をはじめとする関東各地での挙兵や江戸の撹乱工作を開始した。12月23日には[[江戸城]]西ノ丸が焼失。これも薩摩藩と通じた[[奥女中]]の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた[[庄内藩]]の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、老中・[[稲葉正邦]]は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる([[江戸薩摩藩邸の焼討事件]])。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。
相s
 
一連の事件は[[大阪|大坂]]の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく[[会津藩]]らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の[[幕府歩兵隊]]・会津藩・[[桑名藩]]を主力とした軍勢(総督・[[大多喜藩]]主[[大河内正質|松平正質]])を京都へ向け行軍させた。
 
{{quotation|臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主[[島津茂久]])奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。|討薩表(部分)}}