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'''丸山 定夫'''(まるやま さだお、明治34年〈[[1901年]]〈[[明治]]34年〉[[5月31日]] - 昭和20年〈[[1945年]]〈[[昭和]]20年〉[[8月16日]])は、[[大正]]・昭和期の[[日本]]の[[俳優]]。[[築地小劇場]]第一期メンバーの一人である。[[広島市|広島]]に投下された[[原子爆弾|原爆]]により壊滅した移動演劇[[桜隊]](さくら隊、櫻隊とも表記)の隊長を務めた。[[新劇]]の発展に貢献し、新劇の団十郎と賞賛される。
 
== 生涯 ==
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[[愛媛県]][[松山市]]北京町(きたきょうちょう=現在の松山市二番町)に生まれる。父は新聞記者・丸山常次。8歳で父と死別。[[旧制中学校|中学]]への進学をあきらめ、職を転々とする。
 
文学少年だった丸山はやがて戯曲に興味を持つようになり、1917年(大正6年(1917年)、広島を拠点に全国を巡業する[[青い鳥歌劇団]]に入団。俳優としてのスタートを切る。同時期に[[榎本健一]](エノケン)、[[徳川夢声]]らと知り合う。榎本は丸山の演技を見て「とんでもないクサイ芝居をするので新劇に行ったほうがいいよ」と説得し、これが丸山の新劇に興味を持つきっかけとなった。
 
その後上京して浅草の根岸歌劇団に入団。[[関東大震災]](大正12年([[1923年]](大正12年)[[9月1日]])後の被災地で築地小劇場創設の趣意書を偶然拾ったことがきっかけとなり、翌大正13年([[1924年]](大正13年)、演出家・[[土方与志]]宅に単身乗り込んで自身を売り込み、築地小劇場研究生として採用される。研究生の同期には、[[千田是也]]、[[山本安英]]、[[田村秋子]]などがいた。こけら落としはラインハルト・ゲーリング作の『海戦』。この芝居では、開演の合図に銅鑼を鳴らす演出が行われたが、その銅鑼を鳴らしたのが丸山だった。
 
===個性派俳優として===
昭和3年([[1928年]](昭和3年)、築地小劇場の中心人物だった演出家・[[小山内薫]]が死去。これにより劇団内部に意思の食い違いが生じるようになり、翌昭和4年([[1929年]](昭和4年)、丸山、山本、[[薄田研二]]、[[伊藤晃一]]、[[高橋豊子]](のちに[[高橋とよ]])、細川知歌子(のちに[[細川ちか子]])の6名が脱退、土方を中心にして新築地劇団を結成する。この頃から左翼思想に傾倒していくようになり、昭和6年([[1931年]])にはプロット([[プロレタリアート|プロレタリア]]演劇同盟)に加盟した。また、一時期細川知歌子と恋愛関係にあり、[[四谷]]に居を構え、貧困に喘ぎながら同棲生活を送っていたこともつとに知られる話である。
 
[[尾崎士郎]]『[[人生劇場]]』の吉良常、[[マクシム・ゴーリキー|ゴーリキー]]『どん底』のルカ、[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]『[[桜の園]]』のロパーヒンなど、新築地劇団で丸山が演じた役は90以上にのぼる。特に[[モリエール]]『守銭奴』のアルパゴン役は、彼の代表作とされている(後に[[鎌倉市]]小町の妙隆寺にアルパゴンを演じる丸山の肖像を刻んだ墓碑が建てられることとなる)。一方、同棲中の細川が病に倒れた際、窮乏した生活の中でなんとか栄養のある食事を与えて回復させてやりたいという思いから、旧友である榎本を訪ねた。丸山から事情を聞いた榎本は、当時としては高額であった百円で丸山の身柄を買った。それから約半年間、丸山はエノケン一座に「福田良一」という芸名で出演。新劇役者としての地位を投げ捨て、コメディアンに徹した。
 
エノケン一座出演と同時期の昭和8年([[1933年]](昭和8年)、自社製作を開始したばかりの[[P.C.L.]](のちの[[東宝]])と専属契約を結び、映画俳優としてのスタートを切る。おもな代表作に『妻よ薔薇のやうに』([[1935年]]、[[成瀬巳喜男]]監督)、『彦六大いに笑ふ』([[1936年]]、[[木村荘十二]]監督)、『巨人伝』([[1938年]]、[[伊丹万作]]監督※『レ・ミゼラブル』の舞台を日本に置き換えた映画。曽我部刑事(ジャベール)役)、『忠臣蔵』([[1939年]]、[[滝沢英輔]]監督※吉良上野介役)などがある。故郷松山とゆかりのある『坊っちゃん』([[1935年]]、[[山本嘉次郎]]監督)では山嵐を演じた。[[国策]]映画にも多数出演し、『[[指導物語]]』([[1941年]]、[[熊谷久虎]]監督)など[[原節子]]と父娘を演じた作品にも出演している。
 
丸山は[[太宰治]]と親交があり、書簡が数点残されている。小説『酒の追憶』では丸山との交友が描かれている。
 
===桜隊結成===
昭和16年([[1941年]](昭和16年)[[6月9日]]、[[大政翼賛会]]大会議室で[[日本移動演劇連盟|日本移動演劇聯盟]]が結成される。これは戦時体制にともなって全国各地を巡業する劇団もすべて国家の統制下に置こうとする国策組織で、表向き民間の要請により結成という形をとっていたが、実際は[[内閣情報局]]のテコ入れで結成されたものだった。同時にプロレタリア演劇の新築地劇団、[[新協劇団]]、そして彼らを支援する雑誌を出版する[[テアトロ]]社は強制的に解散させられ、丸山は大きな打撃を受ける。
 
この弾圧によって多くの俳優たちが分裂し行き場を失う中、劇作家の[[八田尚之]]は「愉快な演劇、一大喜劇団で国家に寄与」することを表向きの目的として、分裂した俳優たちの再結成を目論んだ。この呼びかけに丸山も応じることになり、昭和17年([[1942年]](昭和17年)に丸山、高山徳右衛門(薄田研二)、藤原鶏太([[藤原釜足]])、徳川夢声の4人が創立同人となって「[[桜隊|苦楽座]]」が旗揚げすることとなる。この劇団には新協劇団の[[仲みどり]]、そして参加経緯は不明とされているが元[[宝塚歌劇団|宝塚]]のプリマ女優・[[園井恵子]]など、後に丸山と共に広島で遭難することになる人々も参加した。
 
一方、丸山が[[文学座]]に客演して大ヒットした舞台『富島松五郎伝』([[築地小劇場|国民新劇場]]、5月6日から5月21日まで、原作:[[岩下俊作]]、脚色:[[森本薫]]、演出:[[里見弴]])<ref name="bun">[http://www.bungakuza.com/about_us/jyouen_sousouki.html 過去の上演作一覧 草創期 文学座公演記録]</ref>は、翌昭和18年([[19441943年]](昭和18年)に大映で『[[無法松の一生]]』として映画化され、舞台では[[杉村春子]]が演じたヒロインに園井恵子が抜擢されることとなる。この映画のヒットにより園井は映画界に留まることを要望されるが未熟という理由で拒否、苦楽座へと戻っていった。
 
[[サイパン]]が陥落して、日本との距離を縮めたアメリカ軍が頻繁に[[日本本土空襲|本土空襲]]を行うようになり、[[本土決戦]]計画が立案されると、それは丸山たち国策と無関係に演劇活動を続けようとする俳優たちの活動にも影響を与えるようになった。映画館や劇場の相次ぐ閉鎖を受ける形で、昭和19年([[1944年]](昭和19年)[[12月24日]]に苦楽座は解散。しかしなおも演劇を続けたい、演劇を続けて暗い世相に活気を取り戻したいと熱望した丸山は、内閣情報局が奨励する移動慰問劇団の結成を思いつき、翌昭和20年([[1945年]](昭和20年)、移動演劇[[桜隊]]を結成する。そして、この時期になってやっと丸山は移動演劇聯盟に加入することとなった。この劇団には園井、仲の他、[[高山象三]](薄田研二の息子)、[[多々良純]]、[[森下彰子]]などの俳優、[[八田元夫]]などの演出スタッフなど総勢17名が参加した。昭和201945年6月末に広島の駐屯が決定し、7月4日の[[NHK広島放送局]]でのラジオ出演後、巡業を開始する。八田元夫の証言によると、この時、既に丸山は高熱に悩まされていた。(肋膜炎の遠因は自転車での転倒らしい)岡山、鳥取などの農山漁村、生産工場などを数か所を巡業した記録がある。中には巡業先に人が集まらず、子どもたち数名を前に演じた場所もあったという。しかし、旅の当初から患っていた肋膜炎が悪化したため、劇団員らは公演中止を促すも隊長としての責任感から、丸山は頑として跳ねつけた。しかし、体調悪化でいよいよ公演続行が不可能になり、1945年7月16日、拠点がある広島市堀川町の寮に引き上げることとなった
しかし、旅の当初から患っていた肋膜炎が悪化したため、劇団員らは公演中止を促すも隊長としての責任感から、丸山は頑として跳ねつけた。しかし、体調悪化でいよいよ公演続行が不可能になり、昭和20年7月16日、拠点がある広島市堀川町の寮に引き上げることとなった。
 
===被爆からその死まで===
昭和20年([[1945年]])[[8月6日]]。この日、中国地方巡回公演に備えて桜隊のメンバー8名と広島市堀川町の高野邸に滞在していた丸山は、原爆の投下に遭遇した。高野邸は爆風で倒壊し、命からがら瓦礫からはい出した丸山だったが、逃げる途中で倒れ意識を失ったところを救助される。最初は鯛尾島の救護所にいたが、比較的ケガが軽いと見做され、小屋浦国民小学校に移送される。(首を梁に挟まれ、かなりの重傷を負っていた)[[8月10日]]に桜隊を案じて東京から広島入りした八田元夫と槙村浩吉が、鯛尾で丸山が書いたメモをつてに小屋浦を訪れ、劇的な再会を果たす。その後、満身創痍の状態で電車を乗り継ぎ[[厳島]]の存光寺に移る。(丸山はケガの激痛で電車の通路で横になっていた)存光寺に到着後、槙村浩吉と珊瑚隊のメンバーが被爆地から仲間五人の骨を発見。遺骨を前に丸山は男泣きに泣いたという。同時に、[[原爆症]]による高熱、しゃっくり、強度の食欲不振、下痢に悩まされた。深夜、身体が熱いと言っては、裸で井戸水をかぶることもあった。[[8月15日]]の[[玉音放送]]を聴き、生死不明のままである残りの仲間の身を案じたまま、翌[[8月16日]]午後10時20分死去した。44歳であった。なお、広島行きをともにし即死を免れた園井、高山象三、仲も、丸山の死の直後に同様の症状により相次いで死亡している。尚、被爆地の高野邸は爆心地からわずか700メートルしか離れておらず、丸山らが致死量の放射線を浴びていたことがその事実から窺える。
 
===追悼の動き===
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その死の特異さから、丸山追悼は桜隊および平和祈念と結びつけられることが多い。
 
連合軍占領下の日本で原爆など日米戦争の日本側犠牲者を追悼する行事や記念碑の建立は厳しく制限されていたが、そのさ中の昭和26年([[1951年]](昭和26年)8月、広島市新川場町(現在の同市[[中区 (広島市)|中区]]内)のどぶ川のほとりに質素な木製の「丸山定夫・園井恵子 追慕の碑」が建てられた。
 
ついで[[サンフランシスコ講和条約]]締結によって日本の占領政策が終結した直後の昭和27年([[1952年]](昭和27年)、徳川夢声が呼びかけ人となって、東京に「桜隊原爆殉難碑」が建てられた。以後、この碑は、藤原釜足、[[小沢栄太郎]]、多々良純など多くの俳優によって守られ、丸山の業績とそれを一瞬にして灰燼に帰した原爆の恐怖を現在に伝えている。
 
こうした動きをもとにして、昭和30年([[1955年]](昭和30年)には、広島で開かれた第1回原水爆禁止世界大会(→[[原水爆禁止日本協議会|原水協]]参照)で、新劇人に対して広島で新たな慰霊碑を建設する呼びかけが行われることとなった。この呼びかけに応じた徳川の他、八田、山本が奔走した結果、昭和34年([[1959年]](昭和34年)8月、[[新制作座]]、文学座、[[俳優座]]、[[ぶどうの会]]、[[劇団民芸|民芸]]、[[中央芸術劇場]]の6劇団と「演劇人戦争犠牲者記念会」の協力によって「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」が、被爆地に近い[[平和大通り]]北側の緑地帯(現在の広島市中区中町)に建立されることとなった。
 
また、前記した鎌倉の墓碑も市民たちによって改修を重ね、平和祈念の象徴として現在に至っている。
 
故郷の松山市では、丸山の業績の顕彰と平和祈念を目的として、生誕100周年にあたる平成13年([[2001年]]([[平成]]13年)から毎年誕生日の5月31日に「丸山定夫を語る会」が開催されている。平成18年([[2006年]](平成18年)11月に松山市が開催する坊っちゃん映画祭では出演映画の上映会が予定されている。
 
== 映像化作品 ==
*[[さくら隊散る]](昭和63年([[1988年]](昭和63年)、[[新藤兼人]]監督):桜隊に関して関係者の証言と再現ドラマで綴ったセミドキュメンタリー。ドラマ部分において[[古田将士]]が丸山を演じている。
*『[[海辺の映画館―キネマの玉手箱]]』([[2020年]]([[令和]]2年)、[[大林宣彦]]監督):劇中劇として広島入り後の桜隊が描かれ、[[窪塚俊介]]が丸山を演じる。
 
== 墓所、記念碑 ==