「リヒャルト・ゾルゲ」の版間の差分

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[[1936年]]の[[二・二六事件]]の際にはドイツ大使館内にいたことが、大使館と戒厳司令部の連絡将校として館内に出入りしていた[[馬奈木敬信]]によって戦後証言されている<ref>[[中田整一]]『盗聴 二・二六事件』文藝春秋社、2007年、pp131 - 136</ref>。ゾルゲはこの事件を日本の対外政策と内部構成を理解する好機ととらえた。オットや大使の{{仮リンク|ヘルベルト・フォン・ディルクセン|de|Herbert von Dirksen}}にも協力を求めて情報収集に努め、事件を分析した報告書をドイツ外務省や所属先である赤軍第四本部、ドイツの雑誌に送っている(ドイツ外務省と雑誌では匿名)。これを契機に大使館側のゾルゲに対する信頼は向上した。なおドイツの雑誌に掲載された論文は、[[カール・ラデック]]がゾルゲの筆とは知らずに評価してソ連の新聞に転載した。ゾルゲはこれに抗議し、以後はこうした事態は避けられた。
 
馬奈木は[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の「ドイツ通」とされ、やはりドイツへの駐在経験のある[[山県有光]]・[[西郷従吾]]・[[武藤章]]らとともに、ゾルゲから手記で「陸軍省の情報源」として名を挙げられている<ref>松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」NHK取材班&下斗米伸夫、1995年、pp.281 - 282</ref>。松崎昭一は、[[日中戦争]]の状況打開を狙ってドイツとの関係強化を図る陸軍側が、ドイツ大使館を通じて(ギブアンドテイクの形で)情報をゾルゲに与えていたのではないかと指摘している<ref>松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」NHK取材班&下斗米伸夫、1995年、pp.285 - 286</ref>。
 
1936年11月にオットの補佐官として駐在武官のショル中佐が着任、第一次世界大戦で同じ戦闘に参加したこともあり、ゾルゲはショルとも親交を深めた{{sfn|三宅正樹|2010|pp=79-80}}。日中戦争([[支那事変]])が1937年に勃発すると、駐日ドイツ大使館ではオット(1938年4月に[[駐日ドイツ大使]]就任)がショル、ゾルゲとの3人で「支那事変に関する日本軍」という調査研究を始め、これにより収集された資料をゾルゲは撮影してソ連本国に送った<ref>松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」NHK取材班&下斗米伸夫、1995年、p.280</ref>。