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'''荘襄王'''(そうじょうおう)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[秦]]の第30代の君主、第5代の[[王]]。[[姓]]は'''嬴'''(えい)、[[諱]]は始め'''異人'''(いじん)、後に'''子楚'''(しそ)。子に[[始皇帝|秦王政]](義父との説あり、詳細は後述)・[[成キョウ|長安君成蟜]]。異母兄弟の
==略歴==
===奇貨居くべし===
[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]の代に、[[太子]]
それを[[邯鄲市|邯鄲]]で目にしたのが大商人であった[[呂不韋]]である。呂不韋は父に相談し「これは珍しい価値を生み出す人物だ。我々が投資すべきだ('''奇貨居くべし''')」と言い、異人と接触。彼に投資をして趙での名声を上げた上に、安国君に気にいられていた[[華陽太后|華陽夫人]]と呂不韋が接触。そのとき、呂不韋の投資で名声を聞いていた華陽夫人に対し「あなたには高齢の安国君との間に子供がおりません。安国君が亡くなった場合にあなたに子供がいない場合、次の太子の有力候補は庶子である公子の[[子ケイ|子傒]]<ref>『[[戦国策]]』秦策
それを聞いた華陽夫人が安国君に頼み込み、華陽夫人の養子として異人をもらい受け、異人が安国君の跡継ぎに指名されることになった。その際、華陽夫人が[[楚 (戦国)|楚]]の[[公主|公女]]であったことにちなみ、子楚と改名した。
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荘襄王は昭襄王・孝文王の政権を引き継ぐ形になり、これまでの功臣をそのまま登用し、[[魏 (戦国)|魏]]・[[韓 (戦国)|韓]]・趙を攻め、[[東周]]を滅ぼし、三川郡を設置する。ただし、東周の王族は存続させた。更にかつての[[長平の戦い]]の舞台となった上党の地を完全制圧し、上党郡や太原郡を設置する。
[[紀元前247年]]、荘襄王即位後の戦争で37もの城を奪われた魏の[[信陵君]]が5
同年5月丙午、35歳で死去。在位はわずか3年であった。
==参考文献==
*[[司馬遷]]『[[史記]]』
*[[劉向]]『[[戦国策]]』秦策
==関連項目==
*[[始皇帝]]
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