「ソ連対日宣戦布告」の版間の差分

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# ソ連政府は連合国に対する義務に従って右提案を受諾し、7月26日の3国宣言にソ連も参加することを決め、各国人民をこれ以上の犠牲と苦難から救い、日本人を無条件降伏後の危険と破壊から救うためにソ連は対日参戦に踏み切ること。
# 以上の理由からソ連政府は8月9日から日本と戦争状態に入るべきこと。
 
== 日本側の対応 ==
前述のように、佐藤大使からの公電は東京の外務省本省に届くことは無かった。
 
一方、日本政府では、ソ連を仲介者とする連合国との和平工作を行っており、ポツダム会談直前の7月13日には[[昭和天皇]]の特使として元内閣総理大臣の[[近衛文麿]]をモスクワに派遣して和平の仲介をソ連の首脳に依頼することを決定し、その日のうちに佐藤大使からモロトフ外務大臣の留守を預かる[[ソロモン・ロゾフスキー]]外務人民委員代理に伝達された<ref>東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』文藝春秋、1983年、P362-363.</ref>。従って、日本としてはソ連側から特使受入れの可否の回答が来るのを待っている状態であり、東郷茂徳外務大臣はポツダム宣言が出た時にこれを受諾すべきとしつつも、ソ連が宣言に加わっていない以上、特使派遣に関する返答を待つべきと考えていた<ref>東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』文藝春秋、1983年、P372.</ref>(実際にはポツダム会談の中で[[ヨシフ・スターリン|スターリン]][[ソビエト連邦人民委員会議議長|ソ連首相]]と[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]][[アメリカ大統領]]らの間で特使問題も協議され、アメリカ側は日本側の話を聞く意味はないと考えるつつも、ソ連側による「特使の性格が不明確」などの理由をもって回答を拒否せずに引き伸ばす方針が了承されていた<ref>東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』文藝春秋、1983年、P364・366.</ref>)。
 
日本政府がソ連の対日宣戦の事実を知ったのは8月9日午前4時(日本時間)に[[タス通信]]がその事実を報じ始めてからで、外務省では午前5時頃に東郷外務大臣に報告が上げられ、前後して[[同盟通信社]]の[[長谷川才次]]海外局長も東郷及び[[迫水久常]][[内閣書記官長]]に通報した。[[御前会議]]においてポツダム宣言受諾の聖断が下された後の10日午前11時15分からソ連大使館側の要請によって貴族院貴賓室において東郷外務大臣と[[ヤコフ・マリク]]駐日ソ連大使の会談が行われた。その中で、マリク大使より正式に対日宣戦布告の通知が行われたのに対し、東郷外務大臣は、日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っており、3国宣言(ポツダム宣言)の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのかとソ連側を批判した上で、日本は3国宣言を受諾した旨をソ連政府に通告するように述べ、更にソ連の仲介によって大戦を終結させることは今後の国際政治のおける地位を有利に出来る機会であったのにそれを逃したことに対する遺憾の念も伝えたのであった<ref>東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』文藝春秋、1983年、P38-382.</ref>。
 
== 背景 ==