「ジャン・アンリ・ファーブル」の版間の差分

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[[1823年]][[12月21日]]、南フランスの[[アヴェロン県]]にある寒村サン・レオンに生まれ、3歳のとき山村にある祖父母の元に預けられ、大自然に囲まれて育った。7歳の時祖父母のいるマラヴァルから呼び戻され、父母と弟のフレデリックの4人で暮らせる様になり、小学校に入学した<ref>[[#津田(1976)|ファーブル巡礼 津田(1976)]] p.74</ref>。父の家業が失敗し、14歳で学校を中退するが、師範学校を出て中学の教師になり、物理学、化学の普及書を著した。[[コルシカ島]]、[[アヴィニョン]]を経てセリニアン(セリニャン・デュ・コンタ)で暮らし、様々な昆虫の観察を行い、それらをまとめて発表したのが『昆虫記』である。
 
ファーブルが生きていた当時、代表作である「昆虫記」がノーベル文学賞の候補に上がるなど文学者としては評価されていた。その反面、博物学者としての彼の業績は祖国フランスではあまり理解されなかったが、。しかしファーブルの開拓した行動学的研究は、その後フランスよりも[[カール・フォン・フリッシュ]]や[[コンラート・ローレンツ]]のような[[ドイツ語]]圏、あるいは[[ニコ・ティンバーゲン]]のような[[オランダ語]]圏の研究者に継承されて発展を遂げることになった。また、{{要出典範囲|古くからの昆虫愛好文化をもつ|date=2013年7月}}[[日本]]でも読まれ、昆虫学の普及に役立った。
 
== 経歴 ==