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元顥は事がうまく進まないのを知ると、子の元冠受とともに部下を率いて梁に亡命した。元顥は梁の[[蕭衍|武帝]]に面会して、泣きながら自説を述べ、言辞が壮烈であったことから、武帝を感嘆させた。武帝は元顥を魏主として立て、兵を貸して北に討ち入らせることにした。[[529年]]4月、元顥は梁国の城南で魏の皇帝を称し、年号を[[孝基]]元年とした。孝荘帝は済陰王[[元暉業]]を都督として、考城で元顥をはばませたが、元暉業は元顥に捕らえられた。5月、元顥は行台の[[楊イク|楊昱]]を[[ケイ陽市|滎陽]]で破った。[[爾朱世隆]]が虎牢から逃走し、孝荘帝が河内に避難した。
 
こうした勝利を得て元顥は北魏の首都であった[[洛陽市|洛陽]]に入り、[[建武 (元コウ)|建武]]元年と改めた。しかし北魏皇帝となった元顥は近習ばかりを厚遇して、政治を見ようとせず、日夜の飲酒に明け暮れて、朝野の失望を買った。6月、爾朱栄が兵を返して元顥を攻撃した。両軍は河梁で戦ったが、爾朱栄の軍が馬渚で渡河すると、元冠受が敗れて捕らえられるなど、元顥の軍は相次いで敗れた。元顥は数百騎を率いて轘轅から南に脱出したが、臨潁県にいたって元顥の部下はばらばらになってしまい、結局元顥は臨潁県卒の江豊に斬られた。
 
[[532年]]、使持節・侍中・都督冀定相殷四州諸軍事・驃騎大将軍・[[大司馬]]・冀州刺史の位を追贈された。[[東魏]]の[[武定 (東魏)|武定]]年間、子の元娑羅が後を嗣いだ。