「高隆之」の版間の差分

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[[550年]]([[天保 (北斉)|天保]]元年)、北斉が建国されると、爵位は平原王に進んだ。まもなく本官のまま[[録尚書事]]となり、大宗正卿・監国史を兼ねた。隆之は文宣帝(高洋)の即位前には見下した態度を取っており、即位後も東魏の旧皇族と交友していたため、文宣帝の怒りを買っていた。[[554年]](天保5年)、文宣帝の命により隆之は壮士に100回の殴打を受けて放逐され、路上で野垂れ死んだ。享年は61。冀定瀛滄幽五州諸軍事・[[大将軍]]・[[太尉]]・太保・[[冀州]]刺史の位を追贈され、陽夏王に追封されたが、[[諡]]は得られなかった。
 
文宣帝の末年には、隆之の子の高徳枢ら十数人が殺害されて、かれらの遺体は[[ショウ河|漳水]]に投げ込まれた。また隆之の墓も暴かれて、骸骨を切り刻まれ、漳水に捨てられた。[[560年]]([[乾明]]元年)、兄の子の高子遠が隆之の後を嗣ぎ、陽夏王に封じられて、財産も返還された。
 
== 伝記資料 ==
527,493

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