「説文解字」の版間の差分

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== 『説文解字』成立の背景 ==
[[前漢]]の[[儒教]]では[[五経博士]]が家法によって[[経書]]を講釈していた。やがて[[孔子]]旧宅の壁中や民間から、博士が教えるものとは違う[[テキスト]]が発見された。これは、[[先秦時代]]の古い書体で書かれていたので、通行の[[隷書体]](今文)のテキストに対して[[古文経伝]]と呼ばれた。[[前漢]]末の[[劉キン (学者)|劉歆]]はこれを学官に立てようとして既存の博士たちと対立したが、[[平帝 (漢)|平帝]]の時代と[[王莽]]の[[新]]朝で学官に立てられた。しかし、[[後漢]]では王莽政権を否定するため、[[今文学]]が継承され、古文経伝に学官が立てられることはなかった。そのため、[[古文学]]は民間で行われるようになり、経文の一字一句を解釈する[[訓詁学]]を発展させた。その強みは今文経学が一経専門で視野が狭いのに対して、文字に還元することで[[六経]]全般に貫通する解釈を打ち出せることであった。そのような状況で古文学者の[[賈逵 (漢)|賈逵]]の弟子に許慎が出た。彼は古文学の正統性を字体の違いに見いだし、古い先秦の字体に基づくことを今文学を攻撃する道具とした。そして、[[篆書]]や古文を『説文解字』にまとめ、『[[周礼]]』古文義法の[[六書]]説に従った「字形」による文字解釈の方法を確立させたのである。
 
== 内容 ==