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'''常思徳'''(常思德、じょう しとく、[[935年]] - [[999年]])は、[[中国]]の[[北宋]]の[[軍人]]。[[本貫]]は[[開封市|開封府]]。
 
== 経歴 ==
[[後周]]の[[顕徳]]元年([[954年]])、徴募に応じて天武軍に属した。後に神衛都虞候に累進した。宋の[[雍熙]]3年([[986年]])、[[曹彬]]の下で[[遼]]を攻撃し、牙校をつとめた。曹彬の北征が失敗すると、宋軍は散り散りになったが、思徳は部下を掌握して[[易州]]に帰還した。思徳は面目を失したことを[[太宗 (宋)|太宗]]に謝罪し、太宗は思徳を慰労してさとした。思徳は[[徐水区|威虜軍]]に駐屯した。[[端拱]]元年([[988年]])、弓箭直都虞候として[[渓州 (湖南省)|渓州]][[刺史]]を兼ねた。
 
[[淳化]]5年([[994年]])、[[李順 (宋)|李順]]が蜀で反乱を起こすと、思徳は[[夔州]]・[[峡州]]で兵を招集した。思徳の軍が[[達州]][[開江県|新寧県]]に達すると、反乱軍3000人あまりを梁山で殲滅した。[[雷有終]]が宋の官軍を率いて[[合州 (重慶市)|合州]]の境に到着すると、反乱軍2万と対峙した。思徳は尹元・[[裴荘]]らとともに雷有終と合流して反乱軍を討ち、合州を平定した。反乱側の田奉正・蘇栄が[[果州]]に拠ったため、思徳はこれを追撃して、800人を斬首した。果州が平定されると、残党が[[渠州]]や広安・梁山に逃亡した。そこで宋軍は二手に兵を分け、思徳が広安・梁山を担当し、尹元・裴荘らが渠州を担当した。宋軍は反乱軍の残党を殲滅し、思徳は功績により[[汝州]]刺史に任じられた。
 
しばらくして思徳は路副都部署に転じ、[[邠州]]に駐屯した。[[咸平]]元年([[998年]])、[[李継隆]]とともに兵糧を[[霊州]]に運び込んだ。病のため陳留都監となり、左神武大将軍の位を加えられた。咸平2年([[999年]])、死去した。享年は65。
 
== 伝記資料 ==