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[[東京府]][[豊多摩郡]][[渋谷町 (東京府)|渋谷町]]金王町(現在の[[東京都]][[渋谷区]][[渋谷]])出身。父は[[埼玉県]]の地主の次男だが、周一は渋谷町立常磐松尋常小学校(現・[[渋谷区立常磐松小学校]])から東京府立一中(現・[[東京都立日比谷高等学校]])、[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校理科乙類]]<ref>{{Cite|和書|title=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278218/106 第一高等学校一覧 自昭和14年至昭和15年]|page=349|year=1939|publisher=第一高等学校|ref=harv}}</ref>(現・[[東京大学教養学部]])を経て[[東京大学|東京帝国大学]][[医学部]]に進学。幼少期より日本の[[中古日本語|古典語]]及び[[漢文]]に親しみ、高等学校では[[英語]]と[[ドイツ語]]を学び、大学時代には[[フランス語]]と[[ラテン語]]を学んだ。[[1943年]]に東京帝国大学医学部を繰り上げ卒業、東京帝国大学医学部附属医院(現在の[[東京大学医学部附属病院]])に配属される。
 
また、学生時代から文学に関心を寄せ、在学中に[[中村真一郎]]・[[福永武彦]]らと「[[マチネ・ポエティク]]」を結成。その一員として韻律を持った日本語詩を発表し、特に「さくら横ちょう」は、[[中田喜直]]と[[別宮貞雄]]、[[神戸孝夫]]が曲を付けていることで有名になった<ref>「[http://www.youtube.com/watch?v=6UhCkGIYeDQ さくら横ちょう]」(別宮貞雄作曲)。</ref>。
 
小説や文芸評論を執筆するかたわら新定型詩運動を進める。『羊の歌』によれば、1941年12月8日の日米開戦の夜は、文楽を観劇した。[[胸膜炎|肋膜炎]]のため徴兵猶予となる。
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===フランス留学から評論活動===
[[1947年]]、中村真一郎・福永武彦との共著『一九四六・文学的考察』を発表し注目される。また同年、『[[近代文学 (雑誌)|近代文学]]』の[[同人]]となる。[[1951年]]からはフランス政府給費留学生として[[フランス]]に渡り、[[パリ大学]]などで血液学研究に従事する一方、日本の雑誌や新聞に文明批評や文芸評論を発表。帰国後「日本文化の雑種性」などの[[評論]]を発表し、[[1956年]]にはそれらの成果を『雑種文化』にまとめて刊行した。雑種文化論は、日本文化に対する問題提起として大きな議論を呼び、んだ。[[1958年]]に医業を廃し、以後評論家として独立した。
 
加藤は、[[荒正人]]らの『近代文学』、つぎに[[花田清輝]]らの『綜合文化』、そして[[中野重治]]らの『新日本文学』などを拠り所に精力的な文筆活動を展開し、[[レジスタンス]]文学に関心を持つ一方で、[[ポール・ヴァレリー]]に関して、「私には、その詩人の運命が地上の一帝国の運命よりも重大に思われた」(『現代フランス文学論』)と述べ、その生涯を特徴付ける文芸と政治への関心を披瀝していた。
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