「大川橋蔵 (2代目)」の版間の差分

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銀幕スターが生で見られるとあって[[明治座]]始まって以来の客入りで、明治座の扉が閉まらなかった<ref>[[テリー伊藤]]のラジオにゲスト出演した[[松方弘樹]]本人の証言</ref>。橋蔵は昼の部の「濡れつばめ」([[川口松太郎]]作・演出)三幕を皮切りに夜の部「いれずみ判官」三幕五場、「花の折鶴笠」四幕十場に出演。とくに「花の折鶴笠」は好評で半年後に映画化、映画より舞台が先に発表された珍しい例と言える。翌年の第二回公演以降は橋蔵が座長と言ってもよいほど舞台の中心に位置するようになる。東映歌舞伎の舞台出演は橋蔵の舞台への郷愁を呼び覚まし、その後[[歌舞伎座]]の橋蔵公演へとつがって行く。
 
[[1967年]]12月から大川橋蔵特別公演で11年ぶりに[[歌舞伎座]]の舞台に復帰。2初日は[[片岡仁左衛門 (13代目)|13代目仁左衛門]]、[[市村羽左衛門 (17代目)|17代目羽左衛門]]、[[市川左團次 (3代目)|3代目左團次]](当時男女蔵)などが[[歌舞伎]]から多数出演した。橋蔵は舞台パンフレットに初日の事について「第一回初日を終えて一人化粧前に座ったとき、感激であふれる涙をどうする事も出来なかった」と語っている。1968年12月の歌舞伎座での『[[鏡獅子]]』では場内割れんばかりの拍手の嵐となり、かつて菊五郎劇団の女形・舞踊の上手さで頭角を表していたが門閥の壁ゆえ果たせなかった夢を映画で成功させ、一枚看板で歌舞伎座を超満員にした。演劇書を多数出版した[[戸板康二]]は[[朝日新聞]]に「どんな時でも橋蔵は本格の歌舞伎舞踊を必ず演じてきたー中略—映画・テレビの世界に入っても[[歌舞伎]]から巣立った事、六代目によって芸道の初歩を与えられたことを決して忘れまいとしている。今日の『[[鏡獅子]]』はかつて菊五郎劇団の女形だった時の舞台感覚を少しも失っていない初々しい色気を持っていた。」とコメントしている<ref>1978年12月17日朝日新聞『芸能めがねふき』</ref>。
 
=== テレビドラマ ===