「ホレィシォ・ネルソン・ジャクソン」の版間の差分

パッカードとオールズモビルを訂正&追記
(パッカードとオールズモビルを訂正&追記)
 
[[1903年]]の春、[[サンフランシスコ]]のある大学のクラブに集っていた男たちは、ホレィシォ・ネルソン・ジャクソンが「『自動車で大陸横断ができる』方に50ドルを賭ける」というのを聞いた。ジャクソンは宣言した。「自分で運転をする。サンフランシスコから合衆国を横断しニューヨークに行く。3ヶ月以内だ。」ジャクソンの側に付いたものも何人かおり、その後たった4日で自動車の調達から何からの旅の支度を済ませたのだった。
 
== 旅以前 ==
[[牧師]]の子として1872年に生まれる。1893年、[[バーモント大学]]医学部を卒業後、[[バーモント州]]の[[:en:Brattleboro (town), Vermont|ブラットルボロー]]で開業、その後[[バーリントン (バーモント州)|バーリントン]]に移る。1899年にバーサ・リチャードソン・ウェルスと結婚。バーサの父は20パーセントグレインアルコールの特効薬、[[ペインズ・セレリー・コンパウンド]]の創業者であり、バーモントでも指折りの富豪だった。
[[アイダホ州]]カルドウェル近くで、ジャクソンとクロッカーはアメリカン・[[ブルドッグ]]を手に入れ、バド(Bud)と名づける。当時の新聞はジャクソンがどうやってバドを入手したのかについて様々に書いているが、盗んだというものまであった。妻の手紙によれば、ある男が15ドル(今日320ドル)で売るといったという。埃っぽいアルカリ性の道なので、バドの目がやられた。ジャクソンはバドにゴーグルをかけてやることにした。(ウィントンには屋根も風防もなかった) このとき、バドは悪い水を飲み病気になったが、元気をとりもどした。
 
この時点で、2人と1匹は有名人になっていた。新聞は彼らの着くところいたるところで写真をとり、インタビューをおこなった。アイダホ、マウンテンホームでは、オレゴントレイルの東側はよくないと住民が教えてくれたので、ジャクソンとクロッカーは、当初のコースをソートゥースマウンテンの南麓沿いに変更。クロッカーは電信でウィントン社に部品をもっとほしいと依頼
 
* クロッカーはウィントン社にエアインテークパーツを送ってほしいと直接電信を打つ。ウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニーが、自社の車がアメリカ横断に使われていると知ったのは、中西部を過ぎてパーツが必要になったこのとき、ジャクソンがパーツを要求した電信を直接ウィントン社宛てに打った時だった。以降は、ウィントン社も協力し、最終ゴールであるニューヨーク市のホテルまでのウイニングランにも参加している。
 
6月16日、アイダホのどこかで、旅の資金を仕舞いこんでいたジャクソンのコートが落ちてしまい探したが見つからなかった。次の停車地点でジャクソンは妻に電信で[[ワイオミング州]]シャイアンまで金を送るように伝えた。しかし車のホイルベアリングがやられてしまい、クロッカーは農家に頼み込んで芝刈り機からホイールベアリングをもらいなんとかまにあわせた。
 
== クロスカントリーレース ==
7月12日、一行は、ついに、[[ネブラスカ州]][[オマハ]]にたどり着いた。ここからは、すこしは舗装された道を通ることができ、旅は楽になる。
ジャクソンの旅は途中からアメリカ至上初のクロスカントリーレースの様相を呈してきた。
 
6月20日、ジャクソンがサンフランシスコを発ってから約一ヵ月後、[[パッカード]]社が新型12馬力ツーリングカーの宣伝のため、ジャクソンよりも先に大陸横断することを企(たくら)む。用意したドライバーはパッカードのテストドライバー、もう一人はオートモビルマガジン社のレポーター。任務は、定期的にレポートを送り一般大衆に宣伝しながら、先にニューヨーク市にたどり着き、車の耐久性を立証することだった。用意した車はジャクソンのものよりガソリンタンクの容量も大きく、登坂能力も上だった。その上、大陸横断鉄道の駅が道中の主要立ち寄り地点に設定され、クルーが先回りして必要品を渡す手はずをし、また、車のトラブルはオハイオにあるパッカードの工場からメカニックを汽車と車とで派遣するという計画だ。この体制と車の性能があれば、まだジャクソンを抜けるとパッカード社は計算していた。
 
7月6日、今度は、[[オールズモビル]]が、ジャクソンやパッカードのツーリングカーよりも軽量な[[ラナバウト]]でニューヨークを目指して旅立った。ドライバーに選ばれたのは2人とも[[オールズモビル#ランサム・E・オールズ|ランサム・オールズ]]自身が優秀なドライバー兼メカニックと認めた人物だった。到着したあかつきには1,000ドルの賞金が約束されていた。
 
== ジャクソン一行の勝利 ==
7月12日、ジャクソン一行は、ついに、[[ネブラスカ州]][[オマハ]]にたどり着いた。ここからは、すこしは舗装された道を通ることができ、旅は楽になる。
 
そして1903年7月26日、ニューヨーク市に到着する。サンフランシスコを発って63日と12時間30分、約2ヶ月だった。8000ドル(17万ドル、約2000万円)を費やした。賭けに勝ったが50ドルは取り立てなかった。
 
パッカード組が到着したのは8月22日。走行日数はジャクソンより1日半短かったが2番手ではまったく意味がなかった。オールズモビル組は9月17日に到着。72日と21時間30分だった。
そして1903年7月26日、ニューヨーク市に到着する。サンフランシスコを発って63日、約2ヶ月だった。8000ドル(17万ドル、約2000万円)を費やした。賭けに勝ったが50ドルは取り立てなかった。
 
== 旅の途中でのトピック ==
* 砂地を横切るのにヨモギを100フィート(約30メートル)敷き並べ、その上をゆっくり走った。車を止め、歩いてスタート地点に戻り、ヨモギを拾い集めてまた車の前方100フィートに敷いた。これを繰り返してようやく砂地を通り越した。
* もうすぐニューヨークというある日、障害物にぶつかり、二人と一匹は車の外に投げ飛ばされた。だれもけがはなかった。これが旅における唯一の事故だった。
* 彼らが旅を始めてしばらくして、パッカードとオールズモビルの車が、それぞれ別々にサンフランシスコからニューヨーク市を目指し出発している。運転は熟練ドライバーでそれぞれの車の会社の後ろ盾をもらっての出発だった。北側のルートを通ったジャクソンたちを追い越せるようもっと中央部のルートを通っていた。早いペースで車を進め、ジャクソンたちを抜くかもしれないと思われたのだが、岩の多い山道に行く手を阻まれたり、車が持たなかったりで、どちらの車も途中であきらめてしまった。
* ウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニーが、自社の車がアメリカ横断に使われていると知ったのは、中西部を過ぎてパーツが必要になったとき、ジャクソンがパーツを要求した電信を直接ウィントン社宛てに打った時だった。以降は、ウィントン社も協力し、最終ゴールであるニューヨーク市のホテルまでのウイニングランにも参加している。
 
== その後の人生 ==
 
旅が終わり、ホレィシォ・ネルソン・ジャクソンはバーモント、バーリントンでバーサとバドと暮らす。バーリントンで、ジャクソンは、[[セオドア・ルーズベルト]]大統領と会っている。
 
=== 企業家 ===
新聞社バーモント・デイリー・ニュースの発行や街の最初のラジオ局WCAX(のちのWVMT)開設をおこない、また、銀行の頭取でもあった。
 
=== クロッカーの早すぎる死 ===
セワール・クロッカーはニューヨークに留まり、6ヶ月間で世界一周する車の旅を提案し出資者を募ったがその夢はかなわなかった。その後2年間、欧州を旅して過ごす。故郷ワシントン州タコマに戻るがしばらくして病に冒される。過労のための神経衰弱と診断されている。(神経衰弱という病名はあまりに広い症状を指すため今日の米国において精神疾患の分類としては使用されない。) 1913年4月22日、永眠。30代初頭の早すぎる死だった。
 
=== 第一次世界大戦 ===
[[第一次世界大戦]]が起こるとジャクソンは42歳という年齢にもかかわらず陸軍に志願する。そのままではとてもいけないため、ルーズベルトに連絡をとった。結果オフィサーとして欧州に渡る。戦争が終わり米陸軍から『殊勲十字章([[:en:Distinguished Service Cross (United States)|Distinguished Service Cross]])』、フランスから『戦功十字章([[:en:Croix de Guerre|Croix de Guerre]])』を授かり、英雄として帰郷。その後、米国在郷軍人会(American Legion)の創設にも携わる。バーモント州知事選には二度立候補したがかなわなかった。
 
=== 企業家 ===
新聞社バーモント・デイリー・ニュースの発行や街の最初のラジオ局WCAX(のちのWVMT)開設をおこない、また、銀行の頭取でもあった。
 
=== 晩年 ===
3,831

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