「呂祖謙」の版間の差分

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*当時出版界では『聖宋文海』という誤謬の多い官書が出回り、孝宗が臨安府にこの本の校正・刊行を命じたが、側近の[[周必大]]はその事業が困難であると説いた。だが呂祖謙は仕事を完成させ『皇朝文鑑』の名を賜った。
*淳熙5年([[1178年]])に官著作郎に任命され、国史院編修官を兼ねていたが、その年に54歳で没する。
*同時代の[[張ショク|張栻]]・[[朱熹|朱子]]を友とし、東南の三賢と並び称された。博識で文辞が豊かであり、詩書春秋では古義を究め、十七史に通じていた。朱熹と対立する学説を主張する[[陸象山]]とを仲介し、対論させた([[鵝湖の会]])。
*呂祖謙の家(河南呂氏)は名族として知られる。[[呂蒙正]]は宋王朝の科挙合格者で最初の宰相となり、その従兄弟の子である[[呂夷簡]]は仁宗朝で、その子[[呂公著]]は哲宗朝で宰相に至り、北宋で3名の宰相を輩出した。呂公著の孫[[呂好問]]は南宋成立期に尚書右丞に至ったが政争で失脚し、その子呂本中は[[秦檜]]に憎まれて官僚としては不遇であったが学者として名高かった。呂好問は呂祖謙の曾祖父、呂本中は大伯父(祖父の兄)にあたる。呂公著は旧法党の中心人物であり、その子孫は秦檜や[[韓侂冑]]に反対したことから政争に巻き込まれてたびたび失脚の憂き目をみた。呂祖謙も進士となったが、学者としての地位を歴任したために失脚こそはしなかったものの正七品の地位に留まっている。その結果、河南呂氏は政治家・官僚の家系としては衰退したものの、学者・文人の一族として名声を得るようになった<ref>衣川強「宋代の名族」『宋代官僚社会史研究』(汲古書院、2006年)所収</ref>。