「阿部正邦」の版間の差分

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正邦は福山転封の翌年、[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])3月28日に福山へ入部し、「指出帳」(宝永差出帳)を全村から提出させて、領内の実情を把握した。この差出帳には、各村の石高、寺社、商品作物、鉄砲など村の概要と年貢納入の方法や、[[五人組 (日本史)|五人組]]などの諸制度が載せられている。同年9月には各郡奉行から村々へ、治安に関する条項を中心とした「条々」35ヵ条を公布して、領主交替時に起こる動揺を抑えようとし、正徳2年([[1712年]])には年貢の納め方についての請書を出させた。また、正徳3年([[1713年]])には村入用に関する規定を定め、節約と村政の公正を命令している。商業統制では[[宝永]]7年(1710年)に升改めを実施している。こうして、正徳3年(1713年)頃までに正邦は福山藩領内を掌握し、[[西国街道]]筋の[[譜代大名]]としての存在意義を定着化させていった。
 
このように正邦は、阿部家の福山藩主では藩政に比較的積極的に取り組んでいたが、転封から5年後の正徳5年([[1715年]])、江戸において死去した。家督は四男・[[阿部正福|正福]]が継いだ。[[諡]]は長生院殿尋誉耀海踞岸。墓地は[[西福寺 (台東区)|西福寺]]([[台東区]][[浅草]])、のち[[谷中霊園|谷中墓地]](台東区[[谷中 (台東区)|谷中]])に改葬。
 
== 官位 ==