「アントニオ・サラザール」の版間の差分

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「人民独裁を基礎とする新国家」を標榜したエスタド・ノヴォ体制下では、1822年から1926年まで続いた[[議会制民主主義]]は敵視され、既存の[[労働組合]]が解体された後、ポルトガル国民は農業、漁業、商工業、運輸業などの職能組合に組織され、工業が未発達の農村的国家を教会と伝統的な身分制中間層が支配する[[コーポラティズム|コルポラティズモ]]体制が建設された<ref>[[#野々山(1992)|野々山(1992:15-16)]]</ref><ref>[[#金七(2003)|金七(2003:224-225)]]</ref>。サラザールの支持基盤はカトリック教会、軍部、銀行家、大地主であった<ref>[[#野々山(1992)|野々山(1992:16)]]</ref>。また、サラザールは[[無政府主義]]政党を禁止した。サラザールの率いる[[国家連合党]]は体制のために存在する政党で、体制のイデオロギー以外が差し挟まれる余地はなかった。
 
[[1936年]]1月にサラザールはそれまでの首相、財務相に加え、外務相、陸軍相、海軍相のポストを兼任し、体制を確立した<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:220)]]</ref>。同年勃発した隣国の[[スペイン内戦]]では、[[ホセ・サンフルホ]]将軍の[[スペイン第二共和政|共和国]]への反乱を支援して2万人の[[義勇軍]]を派遣した<ref>[[#野々山(1992)|野々山(1992:19-20)]]</ref>。また、[[フランシスコ・フランコ]]将軍率いる反乱軍に武器を援助し<ref>Beevor, Antony. The Spanish Civil War. p. 97. ISBN 0911745114</ref>、[[1939年]]に[[フランコ体制下のスペイン]]と友好不可侵条約を締結して友好を深め、フランコはサラザールのことを「私が知っている最も尊敬に値する最も完璧な政治家はサラザールだ。おそらく彼の唯一の欠点はその慎み深さだ」と評した<ref>Lochery, Neill (2011). Lisbon: War in the Shadows of the City of Light, 1939–1945. PublicAffairs; 1 edition. p. 19. ISBN 978-1586488796.</ref>。
 
[[1940年]]には[[バチカン市国|ローマ教皇庁]]と政教協定([[コンコルダート]])を結んだ。サラザールの[[政治哲学]]はカトリックの教義に基づいており、経済政策もカトリックに影響を受けているようである。また、同時代の政治指導者では[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]や[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]よりも、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]の[[エンゲルベルト・ドルフース]]政権に似通っているとも評される<ref>[[#野々山(1992)|野々山(1992:13)]]</ref>。
[[1940年]]には[[バチカン市国|ローマ教皇庁]]と政教協定([[コンコルダート]])を結んだ。
 
サラザールの[[政治哲学]]はカトリックの教義に基づいており、経済政策もカトリックに影響を受けているようである。また、同時代の政治指導者では[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]や[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]よりも、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]の[[エンゲルベルト・ドルフース]]政権に似通っているとも評される<ref>[[#野々山(1992)|野々山(1992:13)]]</ref>。
 
== 第二次世界大戦 ==
[[第二次世界大戦]]では[[中立]]を宣言した。[[枢軸国]]の側に立てばポルトガルの植民地は[[イギリス]]の攻撃を受けることとなるし、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側に立てば、ポルトガル本土が危険に晒されるという判断からだった。ドイツはスペインと同時にポルトガルを攻める計画([[イサベラ作戦]])を立てていたが、実行はされなかった。[[タングステン]]などの希少な軍需物資を連合国と枢軸国双方に輸出を続けることで、経済的にも政治的にも安定を保った(枢軸国への輸出は主に[[スイス]]を経由した)。連合国の勢いが増すと1943年から[[アゾレス諸島]]の[[テルセイラ島]]を[[基地]]として提供するなどした。
 
[[1939年]]に[[フランコ体制下のスペイン]]との友好不可侵条約として締結した{{仮リンク|イベリア同盟|en|Iberian Pact}}によってポルトガルは枢軸国へのスペインの参加を阻止してイベリア半島は戦火から逃れることができ、ポルトガルは[[イギリス]]との[[英葡永久同盟]]も維持することができた<ref name=halstead>{{Cite journal|last=Halstead|first=Charles R.|title=Peninsular Purpose: Portugal and ITS 1939 Treaty of Friendship and Non-Aggression with Spain|date=1980|journal=Il Politico|volume=45|issue=2|pages=287–311|jstor=43210145|issn=0032-325X}}</ref><ref>Hoare, Samuel (1946). Ambassador on Special Mission. Collins; First Edition. p. 45-58</ref>。スペイン内戦中からサラザールに忠実な代理人としてポルトガルから派遣されていた{{仮リンク|ペドロ・テオトニオ・ペレイラ|en|Pedro Teotónio Pereira}}はスペインの中立化に大きな影響力を行使した<ref>Cruz, Manuel Braga da (2004), Pedro Teotónio Pereira, Embaixador Português em Espanha durante as Guerras (PDF) (in Portuguese), Oporto: Estudos de Homenagem a Luís António de Oliveira Ramos, pp. 431</ref>。
[[タングステン]]などの希少な軍需物資を連合国と枢軸国双方に輸出を続けることで、経済的にも政治的にも安定を保った(枢軸国への輸出は主に[[スイス]]を経由した)。連合国の勢いが増すと1943年から[[アゾレス諸島]]の[[テルセイラ島]]を[[基地]]として提供するなどした。また、ポルトガルは大戦中にはヨーロッパから[[アメリカ合衆国|アメリカ]]への最後の脱出口となり、多くの亡命者の避難所となった。
 
また、ポルトガルは大戦中にはヨーロッパから[[アメリカ合衆国|アメリカ]]への最後の脱出口となり、多くの亡命者の避難所となった。サラザールはドイツの[[反ユダヤ主義]]に全く同意していなかったことでポルトガルの[[ユダヤ人]]コミュニティはサラザールを支持した<ref>Milgram, Avraham (2011). Portugal, Salazar, and the Jews. Yad Vashem. p. 35. ISBN 9789653083875.</ref><ref>Dez anos de Política Externa, Vol. 1, p. 137. Edição Imprensa Nacional 1961</ref><ref>Benarus, Adolfo – 'O Antisemitismo' – 1937 ( \Lisboa : Sociedade Nacional de Tipografia)</ref>。
 
== 第二次世界大戦後 ==
{{main|ポルトガルの植民地戦争}}
[[1945年]]の時点で、ポルトガルは[[ポルトガル領アンゴラ|アンゴラ]]、[[ポルトガル領ギニア|ギニア]]、[[モザンビーク]]、[[カーボベルデ]]、[[サントメ・プリンシペ]]、[[ポルトガル領インド|インド]]、[[マカオ]]、[[ポルトガル領ティモール|ティモール]]などの広大な[[植民地]]を領有する[[ポルトガル海上帝国]]を築き上げていた。サラザールの基本方針はこれらの植民地と海上帝国の栄光を維持することであり、1951年には第二次世界大戦後の高まる[[脱植民地化]]の波に対応するために「植民地」を「海外州」と呼び換えて、新興の[[第三世界]]諸国からの植民地支配への非難を回避しようとした<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:238)]]</ref>。サラザー

トガルは大戦中は中立国だったが、スペインと違って大戦期連合国への積極的な協力が考慮されたことで孤立を逃れて[[反共主義マーシャル・プラン]]による援助の申し出あって受け、[[西側諸国]]は1949年に[[北大西洋条約機構]](NATO)、[[1955年]]には[[国際連合]]、[[1960年]]には[[ヨーロッパ自由貿易連合]](EFTA)への加盟をポルトガルに認め、東西[[冷戦]]構造下で[[反共主義]]的なエスタド・ノヴォ体制は世界大戦後も存続した<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:234-235)]]</ref>。NATO原加盟国中唯一の非民主主義国であった。ポルトガルは大戦中は中立国だったが、大戦期の連合国への協力が考慮された結果[[マーシャル・プラン]]による援助の申し出を受けた。こうして生き延びたサラザール体制に対抗するために、1949年には元アンゴラ総督の[[ノルトン・デ・マトス]]が、1958年には[[ポルトガル共産党|共産党]]以外の野党勢力の統一候補となった[[ウンベルト・デルガード]]将軍がそれぞれ大統領選に出馬したが、いずれも敗北している<ref name="金七2003:234-237">[[#金七(2003)|金七(2003:234-237)]]</ref>。同時期にスペインとは相互防衛、軍事的な同盟国となった
 
しかし、「[[アフリカの年]]」こと[[1960年]]にそれまで植民地だった[[アフリカ]]諸国が新たな[[国民国家]]として一斉に独立し、加えて[[アジア]]や[[ラテンアメリカ]]諸国がその[[民族解放]]の歩みを始めると、もはや歴史の歯車をそれ以上押し留めることはできなかった。1961年[[1月22日]]に[[エンリケ・ガルヴァン]]率いる[[イベリア解放革命運動]]が[[サンタ・マリア号乗っ取り事件]]を引き起こしたことをきっかけに非合法的な反体制闘争が火蓋を切り、国内では労働者と学生の反体制運動が激化し、植民地でも[[1961年]][[2月4日]]に[[アンゴラ人民解放運動]](MPLA)が植民地の主都[[ルアンダ]]で蜂起し、[[アンゴラ独立戦争]]が始まった<ref name="金七2003:234-237"/>。同年12月には独立した[[インド]]政府がポルトガル領の[[ゴア州|ゴア]]、[[ダマン]]、[[ディーウ]]に武力侵攻し、1962年には[[ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党]](PAIGC)によって[[ギニアビサウ独立戦争]]が、1964年には[[モザンビーク解放戦線]](FRELIMO)によって[[モザンビーク独立戦争]]が始まった<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:239)]]</ref>。1966年には[[マカオ]]で史上最大の暴動である[[一二・三事件]]が起きた際に軍事恫喝してきた[[中華人民共和国]]の要求をサラザールは全面的に受け入れてマカオは事実上中国の影響下に入り<ref>{{cite web |title=A guerra e as respostas militar e política 5.Macau: Fim da ocupação perpétua (War and Military and Political Responses 5.Macau: Ending Perpetual Occupation) |url=http://media.rtp.pt/descolonizacaoportuguesa/pecas/macau-fim-da-ocupacao-perpetua/ |website=RTP.pt |publisher=RTP |accessdate=2020-01-01}}</ref>、「マカオの王」「マカオの影の総督」<ref>{{cite web|publisher=环球网 |date=2009年12月11日 |accessdate=2019年6月24日 |title=何贤:公认的“影子澳督”和“澳门王” |url=http://history.huanqiu.com/txt/2009-12/658218.html}}</ref> と呼ばれた有力実業家の{{仮リンク|何賢|zh|何賢}}はポルトガル政府と友好的な関係を持ったことから当時のアフリカのポルトガル植民地とは対照的に政情は安定することとなった<ref>Far Eastern Economic Review, 1974, page 439</ref><ref>The Evolution of Portuguese - Chinese Relations and the Question of Macao from 1949 to 1968, Moisés Silva Fernandes, Chinese Academy of Social Sciences, 2002, page 660</ref>。[[ポルトガルの植民地戦争]]はポルトガルにとって大きな負担となり、[[1971年]]には国家予算中の軍事費は45.9%に達していた<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:240)]]</ref>。この植民地政策はカーネーション革命の端緒となったのであり<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 114ページ</ref>、ポルトガルは[[西ヨーロッパ]]の最貧国となった<ref>{{cite journal|last1=Perreira Gomes|first1=Isabel|last2=Amorim|first2=José Pedro|last3=Correira|first3=José Alberto|last4=Menezes|first4=Isabel|title=The Portuguese literacy campaigns after the Carnation Revolution (1974-1977)|journal=Journal of Social Science Education|date=1 January 2016|volume=14|issue=2|pages=69–80|url=http://www.eric.ed.gov/contentdelivery/servlet/ERICServlet?accno=EJ1101128|accessdate=16 January 2018}}</ref><ref>{{cite book|last1=Neave|first1=Guy|last2=Amaral|first2=Alberto|title=Higher Education in Portugal 1974-2009: A Nation, a Generation|date= 21 December 2011|publisher=Springer Science & Business Media|isbn=978-9400721340|pages=95,102|edition=2012|url=https://books.google.com/books?id=vElS1E_-9h0C&lpg=PA102&ots=KoO1RPYx6D&dq=infant%20mortality%20rate%20portugal%201974&pg=PA102#v=onepage&q=infant%20mortality%20rate%20portugal%201974&f=false|accessdate=16 January 2018}}</ref><ref>{{cite news|last1=Whitman|first1=Alden|title=Antonio Salazar: A Quiet Autocrat Who Held Power in Portugal for 40 Years|url=https://www.nytimes.com/1970/07/28/archives/antonio-salazar-a-quiet-autocrat-who-held-power-in-portugal-for-40.html|accessdate=19 January 2018|agency=New York Times|publisher=New York Times|date=28 July 1970}}</ref>。