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== 第二次世界大戦後 ==
{{main|ポルトガルの植民地戦争}}
ポルトガルは大戦中は中立国だったが、スペインと違って大戦期の連合国への積極的な協力が考慮されたことで孤立を逃れて[[マーシャル・プラン]]による援助の申し出も受け、[[西側諸国]]は1949年に[[北大西洋条約機構]](NATO)、[[1955年]]には[[国際連合]]、[[1960年]]には[[ヨーロッパ自由貿易連合]](EFTA)への加盟をポルトガルに認め、東西[[冷戦]]構造下で[[反共主義]]的なエスタド・ノヴォ体制は世界大戦後も存続した<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:234-235)]]</ref>。こうして生き延びたサラザール体制に対抗するために、1949年には元アンゴラ総督の[[ノルトン・デ・マトス]]が、1958年には[[ポルトガル共産党|共産党]]以外の野党勢力の統一候補となった[[ウンベルト・デルガード]]将軍がそれぞれ大統領選に出馬したが、いずれも敗北している国内は盤石であった<ref name="金七2003:234-237">[[#金七(2003)|金七(2003:234-237)]]</ref>。
[[1945年]]の時点で、ポルトガルは[[ポルトガル領アンゴラ|アンゴラ]]、[[ポルトガル領ギニア|ギニア]]、[[モザンビーク]]、[[カーボベルデ]]、[[サントメ・プリンシペ]]、[[ポルトガル領インド|インド]]、[[マカオ]]、[[ポルトガル領ティモール|ティモール]]などの広大な[[植民地]]を領有する[[ポルトガル海上帝国]]を築き上げていた。サラザールの基本方針はこれらの植民地と海上帝国の栄光を維持することであり、1951年には第二次世界大戦後の高まる[[脱植民地化]]の波に対応するために「植民地」を「海外州」と呼び換えて、新興の[[第三世界]]諸国からの植民地支配への非難を回避しようとした<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:238)]]</ref>。
 
[[1945年]]の時点で、ポルトガルは[[ポルトガル領アンゴラ|アンゴラ]]、[[ポルトガル領ギニア|ギニア]]、[[モザンビーク]]、[[カーボベルデ]]、[[サントメ・プリンシペ]]、[[ポルトガル領インド|インド]]、[[マカオ]]、[[ポルトガル領ティモール|ティモール]]などの広大な[[植民地]]を領有する[[ポルトガル海上帝国]]を築き上げていた。サラザールの基本方針はこれらの植民地と海上帝国の栄光を維持することであり、1951年には第二次世界大戦後の高まる[[脱植民地化]]の波に対応するために「植民地」を「海外州」と呼び換えて、新興の[[第三世界]]諸国からの植民地支配への非難を回避しようとした<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:238)]]</ref>。しかし、「[[アフリカの年]]」こと[[1960年]]にそれまで植民地だった[[アフリカ]]諸国が新たな[[国民国家]]として一斉に独立し、加えて[[アジア]]諸国がその[[民族解放]]の歩みを始め、アジアとアフリカに植民地を抱えていたポルトガルにも影響を与えた。1961年[[1月22日]]に[[エンリケ・ガルヴァン]]率いる[[イベリア解放革命運動]]が[[サンタ・マリア号乗っ取り事件]]を引き起こしたことをきっかけに非合法的な反体制闘争が火蓋を切り、国内では労働者と学生の反体制運動が激化し、植民地でも[[1961年]][[2月4日]]に[[アンゴラ人民解放運動]](MPLA)が植民地の主都[[ルアンダ]]で蜂起し、[[アンゴラ独立戦争]]が始まった<ref name="金七2003:234-237"/>。同年12月には独立した[[インド]]政府がポルトガル領の[[ゴア州|ゴア]]、[[ダマン]]、[[ディーウ]]に武力侵攻し、1962年には[[ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党]](PAIGC)によって[[ギニアビサウ独立戦争]]が、1964年には[[モザンビーク解放戦線]](FRELIMO)によって[[モザンビーク独立戦争]]が始まった<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:239)]]</ref>。1966年には[[マカオ]]で史上最大の暴動である[[一二・三事件]]が起きた際に軍事恫喝してきた[[中華人民共和国]]の要求をサラザールは全面的に受け入れてマカオは事実上中国の影響下に入り<ref>{{cite web |title=A guerra e as respostas militar e política 5.Macau: Fim da ocupação perpétua (War and Military and Political Responses 5.Macau: Ending Perpetual Occupation) |url=http://media.rtp.pt/descolonizacaoportuguesa/pecas/macau-fim-da-ocupacao-perpetua/ |website=RTP.pt |publisher=RTP |accessdate=2020-01-01}}</ref>、「マカオの王」「マカオの影の総督」<ref>{{cite web|publisher=环球网 |date=2009年12月11日 |accessdate=2019年6月24日 |title=何贤:公认的“影子澳督”和“澳门王” |url=http://history.huanqiu.com/txt/2009-12/658218.html}}</ref> と呼ばれた有力実業家の{{仮リンク|何賢|zh|何賢}}はポルトガル政府と友好的な関係を持ったことから当時の他のポルトガル植民地とは対照的に政情は安定することとなった<ref>Far Eastern Economic Review, 1974, page 439</ref><ref>The Evolution of Portuguese - Chinese Relations and the Question of Macao from 1949 to 1968, Moisés Silva Fernandes, Chinese Academy of Social Sciences, 2002, page 660</ref>。サラザールはアフリカの数少ない[[白人]]国家であった[[ローデシア]]の[[イアン・スミス]]首相を経済的・軍事的に支援したが<ref>Heinz Duthel (2008). Global Secret and Intelligence Service – III. Lulu. p. 33. ISBN 978-1409210900.</ref>、[[ポルトガルの植民地戦争]]はポルトガルの財政にとって大きな負担となり、[[1971年]]には国家予算中の軍事費は45.9%に達していた<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:240)]]</ref>。<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:240)]]</ref>。この植民地政策はカーネーション革命の端緒となったのであり<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 114ページ</ref>、ポルトガルは[[西ヨーロッパ]]の最貧国となった<ref>{{cite journal|last1=Perreira Gomes|first1=Isabel|last2=Amorim|first2=José Pedro|last3=Correira|first3=José Alberto|last4=Menezes|first4=Isabel|title=The Portuguese literacy campaigns after the Carnation Revolution (1974-1977)|journal=Journal of Social Science Education|date=1 January 2016|volume=14|issue=2|pages=69–80|url=http://www.eric.ed.gov/contentdelivery/servlet/ERICServlet?accno=EJ1101128|accessdate=16 January 2018}}</ref><ref>{{cite book|last1=Neave|first1=Guy|last2=Amaral|first2=Alberto|title=Higher Education in Portugal 1974-2009: A Nation, a Generation|date= 21 December 2011|publisher=Springer Science & Business Media|isbn=978-9400721340|pages=95,102|edition=2012|url=https://books.google.com/books?id=vElS1E_-9h0C&lpg=PA102&ots=KoO1RPYx6D&dq=infant%20mortality%20rate%20portugal%201974&pg=PA102#v=onepage&q=infant%20mortality%20rate%20portugal%201974&f=false|accessdate=16 January 2018}}</ref><ref>{{cite news|last1=Whitman|first1=Alden|title=Antonio Salazar: A Quiet Autocrat Who Held Power in Portugal for 40 Years|url=https://www.nytimes.com/1970/07/28/archives/antonio-salazar-a-quiet-autocrat-who-held-power-in-portugal-for-40.html|accessdate=19 January 2018|agency=New York Times|publisher=New York Times|date=28 July 1970}}</ref>。
ポルトガルは大戦中は中立国だったが、スペインと違って大戦期の連合国への積極的な協力が考慮されたことで孤立を逃れて[[マーシャル・プラン]]による援助の申し出も受け、[[西側諸国]]は1949年に[[北大西洋条約機構]](NATO)、[[1955年]]には[[国際連合]]、[[1960年]]には[[ヨーロッパ自由貿易連合]](EFTA)への加盟をポルトガルに認め、東西[[冷戦]]構造下で[[反共主義]]的なエスタド・ノヴォ体制は世界大戦後も存続した<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:234-235)]]</ref>。こうして生き延びたサラザール体制に対抗するために、1949年には元アンゴラ総督の[[ノルトン・デ・マトス]]が、1958年には[[ポルトガル共産党|共産党]]以外の野党勢力の統一候補となった[[ウンベルト・デルガード]]将軍がそれぞれ大統領選に出馬したが、いずれも敗北している<ref name="金七2003:234-237">[[#金七(2003)|金七(2003:234-237)]]</ref>。
 
しかし、「[[アフリカの年]]」こと[[1960年]]にそれまで植民地だった[[アフリカ]]諸国が新たな[[国民国家]]として一斉に独立し、加えて[[アジア]]諸国がその[[民族解放]]の歩みを始め、アジアとアフリカに植民地を抱えていたポルトガルにも影響を与えた。1961年[[1月22日]]に[[エンリケ・ガルヴァン]]率いる[[イベリア解放革命運動]]が[[サンタ・マリア号乗っ取り事件]]を引き起こしたことをきっかけに非合法的な反体制闘争が火蓋を切り、国内では労働者と学生の反体制運動が激化し、植民地でも[[1961年]][[2月4日]]に[[アンゴラ人民解放運動]](MPLA)が植民地の主都[[ルアンダ]]で蜂起し、[[アンゴラ独立戦争]]が始まった<ref name="金七2003:234-237"/>。同年12月には独立した[[インド]]政府がポルトガル領の[[ゴア州|ゴア]]、[[ダマン]]、[[ディーウ]]に武力侵攻し、1962年には[[ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党]](PAIGC)によって[[ギニアビサウ独立戦争]]が、1964年には[[モザンビーク解放戦線]](FRELIMO)によって[[モザンビーク独立戦争]]が始まった<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:239)]]</ref>。1966年には[[マカオ]]で史上最大の暴動である[[一二・三事件]]が起きた際に軍事恫喝してきた[[中華人民共和国]]の要求をサラザールは全面的に受け入れてマカオは事実上中国の影響下に入り<ref>{{cite web |title=A guerra e as respostas militar e política 5.Macau: Fim da ocupação perpétua (War and Military and Political Responses 5.Macau: Ending Perpetual Occupation) |url=http://media.rtp.pt/descolonizacaoportuguesa/pecas/macau-fim-da-ocupacao-perpetua/ |website=RTP.pt |publisher=RTP |accessdate=2020-01-01}}</ref>、「マカオの王」「マカオの影の総督」<ref>{{cite web|publisher=环球网 |date=2009年12月11日 |accessdate=2019年6月24日 |title=何贤:公认的“影子澳督”和“澳门王” |url=http://history.huanqiu.com/txt/2009-12/658218.html}}</ref> と呼ばれた有力実業家の{{仮リンク|何賢|zh|何賢}}はポルトガル政府と友好的な関係を持ったことから当時の他のポルトガル植民地とは対照的に政情は安定することとなった<ref>Far Eastern Economic Review, 1974, page 439</ref><ref>The Evolution of Portuguese - Chinese Relations and the Question of Macao from 1949 to 1968, Moisés Silva Fernandes, Chinese Academy of Social Sciences, 2002, page 660</ref>。サラザールはアフリカの数少ない[[白人]]国家であった[[ローデシア]]の[[イアン・スミス]]首相を経済的・軍事的に支援したが<ref>Heinz Duthel (2008). Global Secret and Intelligence Service – III. Lulu. p. 33. ISBN 978-1409210900.</ref>、[[ポルトガルの植民地戦争]]はポルトガルの財政にとって大きな負担となり、[[1971年]]には国家予算中の軍事費は45.9%に達していた<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:240)]]</ref>。<ref>[[#金七(2003)|金七(2003:240)]]</ref>。この植民地政策はカーネーション革命の端緒となったのであり<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 114ページ</ref>、ポルトガルは[[西ヨーロッパ]]の最貧国となった<ref>{{cite journal|last1=Perreira Gomes|first1=Isabel|last2=Amorim|first2=José Pedro|last3=Correira|first3=José Alberto|last4=Menezes|first4=Isabel|title=The Portuguese literacy campaigns after the Carnation Revolution (1974-1977)|journal=Journal of Social Science Education|date=1 January 2016|volume=14|issue=2|pages=69–80|url=http://www.eric.ed.gov/contentdelivery/servlet/ERICServlet?accno=EJ1101128|accessdate=16 January 2018}}</ref><ref>{{cite book|last1=Neave|first1=Guy|last2=Amaral|first2=Alberto|title=Higher Education in Portugal 1974-2009: A Nation, a Generation|date= 21 December 2011|publisher=Springer Science & Business Media|isbn=978-9400721340|pages=95,102|edition=2012|url=https://books.google.com/books?id=vElS1E_-9h0C&lpg=PA102&ots=KoO1RPYx6D&dq=infant%20mortality%20rate%20portugal%201974&pg=PA102#v=onepage&q=infant%20mortality%20rate%20portugal%201974&f=false|accessdate=16 January 2018}}</ref><ref>{{cite news|last1=Whitman|first1=Alden|title=Antonio Salazar: A Quiet Autocrat Who Held Power in Portugal for 40 Years|url=https://www.nytimes.com/1970/07/28/archives/antonio-salazar-a-quiet-autocrat-who-held-power-in-portugal-for-40.html|accessdate=19 January 2018|agency=New York Times|publisher=New York Times|date=28 July 1970}}</ref>。
 
== 晩年 ==