「文禄・慶長の役」の版間の差分

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日本の諸将は全州で軍議を行い、右軍、中軍、左軍、水軍に分かれ諸将の進撃路と制圧する地方の分担を行い、守備担当を決め全羅道・忠清道を瞬く間に占領した。北上した日本軍に一時は漢城の放棄も考えた明軍であったが、結局南下しての抗戦を決意し、9月7日に先遣隊の明将・[[解生]]と黒田長政の部隊が忠清道と京畿道の道境付近の[[天安市|稷山]]で遭遇戦となり、毛利秀元が急駆救援して明軍を[[水原市|水原]]に後退させた<ref>http://sillok.history.go.kr/id/wna_13009009_001 "而倭賊登山擧白旗, 天安大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。解摠兵等四將, 去夜發稷山前來, 唐兵亦多死者云。且提督卽刻發放各營, 使之盡數出陣江邊, 仍爲野營云, 且發令旗, 使擺遊擊, 抄領精兵二千五百, 迎擊於水原之路云。"『朝鮮王朝実録・宣祖実録』</ref><ref>『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部</ref>([[稷山の戦い]])。
 
一方海上では、朝鮮水軍の残存艦隊を三道水軍統制使に返り咲いた李舜臣が率いて全羅右水営に拠っていた。李舜臣は、南原城から南下した後、再び乗船して西進していた日本水軍を、9月17日鳴梁海峡で迎え撃ち、これに痛打を与えると速やかに退却した<ref>「乱中日記」</ref>。この[[鳴梁海戦]]の翌日、日本水軍は朝鮮水軍の去った全羅右水営を占領する。さらに、日本の陸軍により全羅道西岸が制圧されると朝鮮水軍は拠点を失い、李舜臣も全羅道北端まで後退し<ref>「乱中日記」</ref>、日本水軍は全羅道西岸まで進出し、陸軍に呼応するかたちで制圧していった。このとき日本水軍は[[姜コウ|姜沆]]や[[鄭希得]]などの多くの捕虜を得た。後に『看羊録』を残した[[姜コウ|姜沆]]が9月23日に藤堂水軍の捕虜となった地点は全羅道[[霊光]]の西岸である。
 
稷山に日本軍が進出すると、明・朝鮮軍は[[漢江]]を主防衛線に設定し、ここをなんとか死守しようとしていたが<ref>http://sillok.history.go.kr/id/wna_13009009_004 "賊勢已迫, 京城闊大, 守禦未固, 沿江列守, 其勢最重。安危、成敗, 決於江上, 而但令崔遠守備, 凡事疎虞, 極爲寒心。"『朝鮮王朝実録・宣祖実録』</ref>、
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*王族:[[宣祖]]、[[光海君]]、[[臨海君]]、[[順和君]]
*主要武将・官僚
**[[柳成龍]]、[[権慄]]、{{lang|ko|[[申リツ|申砬]]}}、[[李舜臣]]、[[元均]]、[[李億祺]]、[[崔湖]]、[[金時敏]]、[[郭再祐]]、{{lang|ko|[[姜コウ|姜沆]]}}、[[宋象賢]]、[[金誠一]]
*その他
:[[鄭希得]]、[[ジュリアおたあ]]、[[高岡宗弼|大添・小添]]、[[沙也可]](金忠善)、[[鄭撥]]、[[金命元]]、[[惟政]]、[[休静]]、[[金応瑞]]、[[李桓福]]、[[李陽元]]、[[李英男]]、[[桂月香]](伝説的な女スパイ)、[[許浚]](王の主治医)、[[論介]]、[[李参平]]、[[鄭起龍]]、[[高敬命]]、[[趙憲]]、[[崔慶会]]、[[尹斗寿]]、[[尹根寿]]、[[李恒福]]、[[李徳馨]]、[[陳武晟]]、{{lang|ko|[[韓濩]]}}、[[黄慎]]、[[百婆仙]] (連れて来られた人)