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== 歴史 ==
=== 郡発足までの沿革 ===
;==== 古代 ====
[[古墳時代]]前期まで[[続縄文文化]]に属するアニワ文化(遠淵式)が栄えた。
[[古墳時代]]前期まで[[続縄文文化]]に属するアニワ文化が栄えた。その後樺太で興った鈴谷文化が[[4世紀]]末まで続き、[[5世紀]]ころから[[オホーツク文化]]が栄えた。古代の文献『[[日本書紀]]』や『[[続日本紀]]』に記述があり、[[飛鳥時代]]に[[阿倍比羅夫]]と交戦した[[粛慎 (日本)|粛慎]]は、オホーツク文化に比定されている。[[平安時代]]中期([[11世紀]])ころから、[[擦文文化]]の担い手が、重要な[[交易]]品であった[[オオワシ]]羽や[[アザラシ]]皮などを確保するため進出。当時、[[和人]]社会では[[武士]]が台頭しはじめ、ワシ羽や海獣皮は[[矢羽]]や[[甲冑]]などの材料として需要が高まっており、[[東北]]の[[奥州藤原氏]]を経由して全国に送られている。擦文文化の担い手は、アイヌの祖先にあたる。
 
その後樺太で興った鈴谷文化が[[4世紀]]末まで続き、[[5世紀]]ころから[[オホーツク文化]]が栄えた。古代の文献『[[日本書紀]]』や『[[続日本紀]]』に記述があり、[[飛鳥時代]]に[[阿倍比羅夫]]と交戦した[[粛慎 (日本)|粛慎 (みしわせ)]]は、オホーツク文化に比定されている。その後、擦文文化進出にともない、オホーツク人は樺太南部から駆逐された。
;中世
[[鎌倉時代]]の文献『[[諏訪大明神絵詞]]』では、[[蝦夷管領]]・[[安東氏]]が唐子と呼ばれる[[蝦夷#えぞ|蝦夷]]([[アイヌ]])を統括。唐子は[[北海道]][[日本海]]側や[[オホーツク海|北海岸]]および樺太南部に居住し、城下交易のため[[渡党]]の領域まで赴き生活必需品を入手していた([[ウイマム|城下交易]]も参照)。[[室町時代]]の[[文明 (日本)|文明]]17年([[1485年]])、唐子の[[名主|乙名]]が安東氏の代官である[[武田信広]]に銅雀台瓦硯を献じたという(『福山秘府』)<ref>[http://www.town.matsumae.hokkaido.jp/hotnews/files/00000300/00000315/26doujakudaigaken.pdf 松前町「松前の文化財」 - 松前家伝 銅雀台瓦硯]</ref>。
 
[[古墳平安時代]]前#平安中まで[[続縄文文化]]に属するアニワ文化が栄えた。その後樺太で興った鈴谷文化が[[4世紀]]末まで続き、[[5世紀]]ころから[[オホーツク文化]]が栄えた。古代の文献『[[日本書紀]]』や『[[続日本紀]]』に記述があり、[[飛鳥時代]]に[[阿倍比羅夫]]と交戦した[[粛慎 (日本)|粛慎]]は、オホーツク文化に比定されている。[[平安時代中期]]中期([[11世紀]])ころから、[[擦文文化]]の担い手が、重要な[[交易]]品であった[[オオワシ]]羽や[[アザラシ]]皮などを確保するため進出。当時、[[和人]]社会では[[武士]]が台頭しはじめ、ワシ羽や海獣皮は[[矢羽]]や[[甲冑]]などの材料として需要が高まっており、[[東北安倍氏 (奥州)|安倍氏]][[奥州藤原氏]]をはじめとする[[奥羽]]の[[豪族]]を経由して全国に送られている。また、和人社会からも流入する和産物が増加し、それをきっかけに擦文文化から[[アイヌ文化]]に転換していったとみられる。続縄文文化や擦文文化の担い手は、アイヌの祖先にあたる。
;近世
 
==== 中世 ====
中世の文献『[[諏訪大明神絵詞]]』では、[[鎌倉時代]]以降、[[蝦夷管領]]・[[安東氏]]が唐子と呼ばれる[[蝦夷#えぞ|蝦夷]]([[アイヌ]])を統括<ref>[https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0120205100/0120205100100010/ht030090 函館市史 通説編1 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 第1章 安東氏及び蠣崎氏 第2節 安東氏の支配]</ref>。安東氏は、[[日本海]]北部を中心にかなり広範囲にわたって活動していたという(『廻船式目』)。奥州藤原氏を引き継ぐ陸の豪族であるとともに[[水軍#日本の水軍|安藤水軍]]を擁し、蝦夷社会での騒乱時には、しばしば津軽海峡以北に出兵したという<ref>木村裕俊 「道南十二館の謎」111頁 {{ISBN2| 978-4-8328-1701-2}}</ref>。[[応永]]年間になると安東氏は「北海の夷狄動乱」を平定し、'''日之本将軍'''と称していた。
 
[[室町時代]]になり、安東水軍は関東御免船として活動、北方産品を大量に仕入れ全国に出荷する一方、和産物を蝦夷社会へ供給していた(『十三往来』)<ref>海保嶺夫 エゾの歴史 117,149-152頁 {{ISBN2| 978-4-0615-9750-1}}</ref><ref>木村裕俊 「道南十二館の謎」95-98,137-138頁 {{ISBN2| 978-4-8328-1701-2}}</ref><ref>[https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0120205100/0120205100100010/ht030140 函館市史 通説編1 通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世 第1章 安東氏及び蠣崎氏 第3節 中世期の商品流通]</ref><ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/sousei/resas/pdf/goshogawarashi.pdf 五所川原市の地域経済循環分析] 安東氏の活動範囲は[[北海道]]や[[樺太]]のほか、大陸にも及んでいたという</ref>。
 
[[鎌倉時代]]の文献『[[諏訪大明神絵詞]]』ではまた[[蝦夷管領]]・[[安東氏]]が唐子と呼ばれる[[蝦夷#えぞ|蝦夷]]([[アイヌ]])を統括。唐子は[[北海道]][[日本海]]側や[[オホーツク海|北海岸]]および樺太南部に居住し、城下交易のため十三湊や[[渡党]]の領域まで赴き生活必需品などを入手していた([[ウイマム|城下交易]]も参照)。[[室町時代]]の[[文明 (日本)|文明]]17年([[1485年]])、唐子の[[名主郷村制#構成員|乙名]]が安東氏の代官である[[武田信広]]に銅雀台瓦硯を献じその配下になったという(『福山秘府』)<ref>[http://www.town.matsumae.hokkaido.jp/hotnews/files/00000300/00000315/26doujakudaigaken.pdf 松前町「松前の文化財」 - 松前家伝 銅雀台瓦硯]</ref>。
 
==== 近世 ====
[[江戸時代]]になると、豊原郡域は西蝦夷地に属し、[[慶長]]8年([[1603年]])宗谷に置かれた役宅がこれを司った。[[貞享]]2年([[1685年]])以降は[[北見国|宗谷場所]]に含まれ、以降、[[樺太アイヌ]]は[[和人地]]まで赴かずに、宗谷で生活物資が入手可能となった。[[宝暦]]2年([[1752年]])ころシラヌシ([[本斗郡]][[好仁村]]白主)での交易が始まり、[[寛政]]2年([[1790年]])松前藩が樺太[[地方知行#商場知行制|商場(場所)]]を開設、場所請負人は[[村山伝兵衛|阿部屋村山家]]。幕府も南端の白主に勤番所を置く。[[久春古丹]]([[大泊郡]][[大泊町]]楠渓)にも[[場所請負制#運上屋|運上屋]]があり、撫育政策として行われる'''[[オムシャ]]'''では、老病者などに御救米を支給する介抱もおこなった。当時の地方行政の詳細については、[[場所請負制#場所請負制成立後の行政|場所請負制成立後の行政]]および[[江戸時代の日本の人口統計]]も参照。
 
その後、場所請負人は、寛政8年から大阪商人・小山屋権兵衛と藩士・板垣豊四郎、翌9年からは板垣豊四郎が単独で請負う。[[寛政]]12年([[1800年]])カラフト場所は松前藩直営となる。以降、藩士・高橋荘四郎と目谷安二郎が管理し、兵庫商人・柴屋長太夫が仕入れを請負った。
 
===== 第一次幕領期 =====
[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])[[文化露寇]]<ref>[https://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/files/00006900/00006975/dai2syou.pdf 稚内史 第二章 ロシアの乱暴と山崎半蔵の宗谷警備]</ref><ref>文化四(千八一七)年ロシアの択捉島襲撃を巡る諸問題 川上淳</ref><ref>高野明、「[https://hdl.handle.net/2065/00053944 フヴォストフ文書考]」『早稲田大学図書館紀要』 1964年 6巻 p.1-28, {{hdl|2065/00053944}}, {{naid|120006306514}}</ref>発生を受け、樺太を含む西蝦夷地が[[箱館奉行#箱館奉行・松前奉行・蝦夷奉行|松前奉行]]の管轄する[[天領|公議御料]](幕府直轄領)となった(〜[[1821年]]、第一次幕領期)。ここのと文化5年([[1808年]])、幕命を受けた[[会津藩]]が[[警固]]に就き、文化6年([[1809年]])西蝦夷地から樺太場所請負人は柴屋長太夫が分立、この年から豊原郡域の警固を[[津軽藩]]が引き継いだ
文化5年([[1808年]])、幕命を受けた[[会津藩]]が[[警固]]に就き、文化6年([[1809年]])西蝦夷地から樺太が分立、この年から豊原郡域の警固を[[津軽藩]]が引き継ぎ、樺太場所(北蝦夷地場所)の請負人は[[栖原角兵衛|栖原家]]と[[伊達林右衛門|伊達家]]<ref>田島佳也、「[http://id.nii.ac.jp/1274/00002576/ 近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人]」『知多半島の歴史と現在(16) 』 2015年 19巻, 日本福祉大学知多半島総合研究所</ref>となった。豊原郡域の[[蝦夷#えぞ|蝦夷]]([[アイヌ]])たちにも、[[亜庭湾]]岸の漁場に出稼ぎし生計を建てるものがいた。
 
公議御料となった文化5年([[1808年]])、幕命を受けた[[会津藩]]が[[警固]]に就このとき、樺太場所請負人は柴屋長太夫。文化6年([[1809年]])西蝦夷地から樺太が分立、この年から豊原郡域の警固を[[津軽藩]]が引したと継ぎ、樺太場所(北蝦夷地場所)の請負人は[[栖原角兵衛|栖原家]]と[[伊達林右衛門|伊達家]]<ref>田島佳也、「[http://id.nii.ac.jp/1274/00002576/ 近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人]」『知多半島の歴史と現在(16) 』 2015年 19巻, 日本福祉大学知多半島総合研究所</ref>となった。豊原郡域の[[蝦夷#えぞ|蝦夷]]([[アイヌ]])たちにも、[[亜庭湾]]岸の漁場に出稼ぎし生計をてるものがいた。
 
===== 松前藩復領後 =====
北方情勢が安定した[[文政]]4年([[1821年]])豊原郡域も松前藩領に復した。
復領後、[[安政]]3年([[1856年]])に[[松浦武四郎]]がシュシュヤ越([[大泊国境線]]の前身)を通っており、郡域内のハアセ(ハアセクシ、豊原西部)で小屋掛けし宿泊。ただし、夏場の道は草が伸び通行が大変であったという。安政3年は[[箱館奉行#箱館奉行・松前奉行|箱館奉行]]所の支配組頭・[[向山源太夫]]の部下、[[幕臣|幕吏]]としての渡樺である。
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**ハアセ(ハアセクシ、豊原市西部)・・・小屋
 
;===== 幕末の樺太警固(第二次幕領期) =====
安政2年([[1855年]])[[日露和親条約]]で国境未定のまま交渉を棚上げ先送りさた。樺太を含む蝦夷地が再び公議御料となり、豊原郡域は[[秋田藩]]
警固地となった<ref>[https://www.pref.akita.lg.jp/uploads/public/archive_0000005160_00/H18_kikaku.pdf 平成18年度 秋田県公文書館企画展 秋田藩の海防警備]</ref>。その後、[[万延]]元年([[1860年]])樺太警固は[[仙台藩|仙台]]・[[会津藩|会津]]・秋田・[[庄内藩|庄内]]の4藩となるが、[[文久]]3年([[1863年]])以降は仙台・秋田・庄内の3藩体制となる。<ref>榎森進、「[http://id.nii.ac.jp/1204/00023583/ 「日露和親条約」調印後の幕府の北方地域政策について]」『東北学院大学論集 歴史と文化 (52)』 2014年 52巻 p.17-37, {{naid|40020051072}}</ref>[[慶応]]3年([[1867年]])[[樺太島仮規則|樺太雑居条約]]で樺太全島が日露雑居地とされた。
 
;==== 大政奉還後 ====
慶応4年([[1868年]])4月12日、[[箱館裁判所]](閏4月24日に[[箱館府]]と改称)の管轄<ref>秋月俊幸、「[https://hdl.handle.net/2115/5210 明治初年の樺太 日露雑居をめぐる諸問題]」『スラヴ研究』 1993年 40巻 p.1-21, 北海道大学スラブ研究センター</ref><ref>[https://library.tokushima-ec.ed.jp/digital/densi/desiryou/ken/mon_siryouten/s17.pdf 第十七回資料紹介展 徳島県人の北海道移住 徳島県立文書館]</ref>となり、[[明治]]2年([[1869年]])北蝦夷地を樺太州([[令制国|国]])と改称<ref>[https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1712.pdf 「近世蝦夷地の地名」髙木崇世芝]</ref>。同年、[[開拓使]]直轄領となった。明治3年([[1870年]])開拓使から分離、[[樺太開拓使]]領となったが、明治4年(1871年)開拓使直轄領に復した。同年8月29日、[[廃藩置県]]。このころ行われた[[文明開化]]期の事象としては、[[神仏分離|神仏分離令]]、[[壬申戸籍]]編製、[[散髪脱刀令]]、[[平民苗字必称義務令]]公布などが挙げられる。アイヌは[[百姓]]身分だったため、[[平民]]となった。明治8年([[1875年]])、[[樺太千島交換条約]]により[[ロシア]]領とされた。
 
;==== ロシア領時代 ====
[[1890年]](明治23年)、流刑地となっていた樺太調査のため、作家の[[アントン・チェーホフ]]が来樺、豊原郡域にも来訪。彼は後に報告記「[[サハリン島 (ルポルタージュ)|サハリン島]]」を執筆した。
 
;==== 日本領に復帰 ====
* [[1905年]](明治38年)
** 7月 - [[日露戦争]]・[[樺太の戦い (1905年)|樺太の戦い]]で、[[大日本帝国陸軍|日本軍]][[第13師団 (日本軍)|第13師団]]が占領。10日、唐松を過ぎ、清川と大沢付近で攻撃を受け追分方面に火炎が上るも、豊原占領。11-15日におこなわれた軍川の戦いでは、12日西久保少佐戦死。16日、軍川付近のロシア軍降伏し武装解除。18日、小沼に進軍。28日、小里のロシア軍が留多加川経由で[[真岡郡|真岡方面]]に逃走。31日、在樺太ロシア軍降伏。
** [[8月1日]] - [[軍政]]が敷かれ、南樺太に4つの軍政署を開設。豊原郡域は第二仮軍政区の管轄となる。軍政区署はウラジミロフカ([[豊原市]]北豊原)。
** [[8月28日]] - [[内務省 (日本)|内務省]]下[[樺太民政署]]コルサコフ支所の管轄となる。
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* [[1907年]](明治40年)[[3月14日]] - [[内務省 (日本)|内務省]]の下部組織[[樺太庁]]発足、ウラジミロフカ支庁の管轄となる。
* [[1908年]](明治41年)4月 - 管轄支庁を[[豊原支庁]]に改称。
* [[1909年]](明治42年) -
** 豊原支庁豊原出張所の管轄となる。
** 同年、樺太庁令で、「部落総代規定」を制定。主要集落に町村長に相当する総代を置き、行政事務をおこなうこととした。
* [[1913年]]([[大正]]2年)2月 - 豊原出張所廃止。
 
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* [[1915年]]([[大正]]4年)[[6月26日]] - 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年[[勅令]]第101号)の施行により、行政区画としての豊原郡発足。発足時、豊南村、大富村、豊原町、西久保村、高岡村、広野村、豊北村の7村。豊原支庁が管轄。(1町6村)
*[[1918年]](大正7年) - [[共通法]](大正7年法律第39号)(大正7年4月17日施行)1条2項で、樺太を[[内地]]に含むと規定<ref>[{{NDLDC|2953822/3}} 法律第39号] 官報 大正7年(1918年)4月17日</ref>され、終戦まで基本的に[[国内法]]が適用されることとなった。
* [[1922年]](大正11年) [[4月1日]] - 「樺太ノ地方制度ニ関スル法律」(大正10年4月8日法律第47号)と、その細則「樺太町村制」(大正11年1月23日勅令第8号)を同時に施行。「部落総代規定」廃止
* [[1923年]](大正12年)[[4月1日]] - 豊南村・大富村・西久保村が豊原町に、高岡村・広野村が豊北村にそれぞれ合併。(1町1村)
* [[1929年]]([[昭和]]4年)[[7月1日]] - [[樺太町村制]]の施行により、'''[[豊原市|豊原町]]'''(一級町村)、'''[[豊北村]]'''(二級町村)が発足。
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== 関連項目 ==
* [[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]
* [[奥州藤原氏]]
* [[蝦夷管領]][[安東氏]]
** [[水軍#日本の水軍|安藤水軍]](関東御免船)
** [[十三湊]]
** [[武田信広]]
* [[松前藩]]
** [[地方知行#商場知行制|商場(場所)知行制]]
** [[場所請負制]]-[[オムシャ]]
** [[領]]-[[村請制度]]-[[地方三役|役蝦夷]]-[[夫役]]
* [[箱館奉行#箱館奉行・松前奉行|箱館奉行]]
** [[天領]]