「九七式中戦車」の版間の差分

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=== ノモンハン事件 ===
[[File:Battle of Khalkhin Gol-Japanese Type 89 Chi-Ro midium tank.jpg|thumb|270px|ノモンハンで休憩中の日本軍戦車兵、中央奥にあるのが九七式中戦車、手前は八九式中戦車]]
ノモンハン事件では、日本建軍以来初めてとなる、大規模な戦車戦力が投入された。投入された第1戦車団(団長[[安岡正臣]]中将)は[[戦車第3連隊]](八九式中戦車26輌、九七式中戦車4輌、[[九四式軽装甲車]]11輌、[[九七式軽装甲車]]4輌)と[[戦車第4連隊]](八九式中戦車8輌、九五式軽戦車35輌、九四式軽装甲車4輌)の二個戦車合計連隊編成されて、戦力は戦車73輌、装甲車を加えて合計92輌となった{{Sfn|コロミーエツ|p=17}}。ノモンハン事件ではに投入されたソ連軍の戦車は速度は速いが装甲が薄い[[BT-7]]や[[BT-5]]といった戦車が主力であり、両軍のなかでもっとも装甲が厚かった戦車は最大装甲厚25 mmの九七式中戦車であった{{Sfn|下田|2014|p=111}}{{Sfn|下田|2014|p=133}}。
 
1939年7月2日、ノモンハンに到着した[[吉丸清武]]大佐率いる戦車第3連隊は、歩兵支援のために夕刻6時15分から前進開始、連隊長の吉丸新型の九七式中戦車に自ら搭乗し攻撃の先頭に立ってソ連軍陣地に突入した。降りはじめた雨が目隠しとなり、8時ごろに最右翼を進む第1中隊が砲兵陣地に突入成功し、野砲2門撃破、2門を捕獲する戦果を挙げた{{Sfn|古是|2009|p=82}}。また、戦車第4連隊は7月2日から3日の夜間に、戦史上初となる、まとまった戦車部隊での夜襲となったバルシャガル高地攻撃を行った。暗闇と雷雨にまぎれてソ連軍陣地の奥深くまで蹂躙し、ソ連軍戦車2輌・装甲車10輌・トラックを20台・砲多数を撃破してるのう大戦果に対して、戦車第4連隊の損失は95式軽戦車1輌のみであった{{Sfn|越智|p=250}}。
 
前日、ソ連軍の野砲陣地を襲撃し大戦果を挙げていた戦車第3連隊は、7月3日の日中に、吉丸の九七式中戦車を先頭にして、ソ連軍陣地に正面攻撃をかけた。途中で接触したソ連軍戦車や装甲車計20輌と戦車戦になったが、2輌の戦車と10輌の装甲車を撃破して撃退した{{Sfn|豊田|1986|p=115}}(ソ連側記録ではBT-5を3輌損失){{Sfn|コロミーエツ|p=82}}。しかし、実際に交戦してみると、日本軍側の予想以上にソ連軍の戦車の性能がよく、ソ連軍の戦車砲の射程が長く、また遠距離から日本軍戦車の砲塔の装甲板を易々と貫通することに衝撃を受けている{{Sfn|豊田|1986|p=115}}。やがてソ連軍防衛線に近づくと、巧みに擬装された対戦車砲の激しい砲撃を浴びて、次々と戦車第3連隊の戦車が撃破された。また陣前に張られた[[ピアノ線]][[鉄条網]]に[[履帯]]を絡めとられた戦車は行動不能となったが、そこを戦車と対戦車砲に狙い撃たれて損害が増大した。吉丸の搭乗する九七式中戦車もピアノ線で擱座したところを狙い撃たれて撃破され、吉丸は戦死している。ソ連軍戦車も加わった集中砲火の中で、日本軍戦車は次々と命中弾を浴びたが、日本軍戦車は九七式中戦車を始めとして。多くがディーゼルエンジンであり、命中弾があっても容易に炎上せず、装甲は薄いながらも予想外の打たれ強さで{{Sfn|コロミーエツ|p=75}}窮地の中でも善戦し、ソ連軍戦車32輌と装甲車35輌を撃破したが、日本軍は13輌の戦車と5輌の装甲車を撃破され、撤退を余儀なくされた{{Sfn|豊田|1986|p=115}}。防衛していたソ連の連隊指揮官は初の大規模な日本軍戦車攻撃を撃退し、司令部に喜びのあまり「日本戦車を食い止めました、奴らは次々に燃え上がっています。ウラー(万歳)」と興奮した報告を行っている{{Sfn|越智|p=118}}。
 
その後も戦闘によって日本軍戦車の消耗は続き、7月9日には戦車の完全喪失が30輌に達したことを知った関東軍が、このままでは虎の子の戦車部隊が壊滅すると懸念し「7月10日朝をもって戦車支隊を解散すること」との両連隊に対する引き揚げを命じた{{Sfn|秦|2014|p=Kindle版1697}}。第4戦車連隊連隊長の[[玉田美郎]]大佐らはこの命令を不服としたが、関東軍の決定は覆らず、ノモンハンでの日本軍戦車隊の戦績はここで終局をむかえることとなった{{Sfn|古是|2009|p=182}}。戦車第3連隊は343名の兵員の内、吉丸連隊長を含む47名が戦死し戦車15輌を喪失、戦車第4連隊は561名の内28名戦死し戦車15輌喪失し戦場を後にしたが{{Sfn|秦|2014|p=Kindle版1559}}、九七式中戦車は投入された4輌のなかで撃破されたのは吉丸の連隊長車の1輌のみであった{{Sfn|加登川|1974|p=186}}。
 
日本軍戦車はあまりにも早い時点で戦場から姿を消したため、戦死した吉丸連隊長の遺骨を抱いて帰った戦車兵らに「日本の戦車は何の役にも立たなかった」「日本の戦車はピアノ線にひっかかって全滅した」「一戦に敗れ、引き下がった」「戦場から追い返された」などの辛辣な声がかけられたこともあって{{Sfn|加登川|1974|p=188}}、戦後に作家の[[司馬遼太郎]]に「もつともノモンハンの戦闘は、ソ連の戦車集団と、分隊教練だけがやたらとうまい日本の旧式歩兵との鉄と肉の戦いで、日本戦車は一台も参加せず、ハルハ河をはさむ荒野は、むざんにも日本歩兵の殺戮場のような光景を呈していた。事件のおわりごろになってやっと海を渡って輸送されてきた[[八九式中戦車]]団が、雲霞のようなソ連の[[BT戦車]]団に戦いを挑んだのである{{Sfn|司馬|2004|pp=179-180}}」「(日本軍の戦車砲は)撃てども撃てども小柄なBT戦車の鋼板にカスリ傷もあたえることができなかった、逆に日本の八九式中戦車はBT戦車の小さくて素早い砲弾のために一発で仕止められた。またたくまに戦場に八九式の鉄の死骸がるいるいと横たわった。戦闘というより一方的虐殺であった{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版523}}」などと著作に書かれるなど、事実に相違した印象が広まることとなった。
 
なお、司馬は[[学徒出陣]]で戦車隊士官となり九七式中戦車に搭乗で訓練をしていが、九七式中戦車が終生まで強い印象として残っていたようで、著作に「同時代の最優秀の機械であったようで{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版474}}」「チハ車は草むらの獲物を狙う猟犬のようにしなやかで、車高が低く、その点でも当時の陸軍技術家の能力は高く評価できる」「当時の他の列強の戦車はガソリンを燃料としていたのに対し、日本陸軍の戦車は既に(燃費の良い)ディーゼルエンジンで動いていた{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版487}}」と称賛する一方で、その戦闘能力については「この戦車の最大の欠点は戦争ができないことであった。敵の戦車に対する防御力もないに等しかった」と罵倒するなど愛憎入り混じった評価をしている{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版487}}。また、戦車に乗っている自分の姿をよく夢に見ているが、その夢の内容を「戦車の内部は、エンジンの煤と、エンジンが作動したために出る微量の鉄粉とそして潤滑油のいりまじった特有の体臭をもっている。その匂いまで夢の中に出てくる。追憶の甘さと懐かしさの入りまじった夢なのだが、しかし悪夢ではないのにたいてい魘されたりしている」と詳細に書き残しており{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版922}}、戦車に対する司馬の愛着を感じることができる{{Sfn|秦|2012|p=Kindle版1409}}。戦車兵であったという軍歴も否定的には捉えておらず、戦友会にも積極的に出席していた{{Sfn|秦|2012|p=Kindle版1384}}。[[戦車第1連隊]]のときの司馬の元上官で、戦後に[[AIG損害保険|AIU保険]]の役員となった宗像正吉は、歴史研究家[[秦郁彦]]からの司馬はなぜ日本軍の戦車の悪口を言い続けたのか?という質問に対して「彼は本当は戦車が大好きだったんだと思います。ほれ、出来の悪い子ほどかわいいという諺があるでしょう」と答えている{{Sfn|秦|2012|p=Kindle版1392}}。
 
=== 太平洋戦争初期 ===