「恵文王 (趙)」の版間の差分

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|説明 =
|王朝 =[[趙 (戦国)|趙]]
|在位期間 =[[紀元前298297年|前298297年]] - [[紀元前266年|前266年]]
|都城 =[[邯鄲]]
|諱 =趙何
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|注釈 =
}}
'''恵文王'''(けいぶんおう、 [[紀元前310年]] - [[紀元前266年]])は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[趙 (戦国)|趙]]国の第7代君主(在位:[[紀元前298297年]] - 紀元前266年)。王としては第2代。[[姓]]は'''嬴'''、[[氏 (中国)|氏]]は'''趙'''、[[諱]]は'''何'''。[[武霊王]]の子、弟に[[平原君]]がいる。
 
==生涯==
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何の母は呉広(ごこう)の長女で、[[呉孟姚|孟姚]](もうよう)と通称されていた(姚姓の家の長女の意味。呉広は姓が姚、氏が呉、諱が広)。ある時に武霊王が夢の中に美女を見て、その美女の特徴を盛んに周囲に話していた。それを聞いた呉広はその夢の美女の特徴が自分の娘に良く似ている事に気づき、武霊王に娘を献上した。孟姚を見た武霊王はその日から異常に寵愛して公子何を生む。
 
武霊王の孟姚に対する[[寵愛]]は甚だしく、武霊王2625年([[紀元前300301年]])に孟姚が没した後、既に[[太子]]に建てていた章を廃嫡して、公子何を太子とした。
 
武霊王28年([[紀元前298年]])、武霊王は[[中山国|中山]]攻略中に太子何に位を譲り、自分は主父と称して一切を何に任せたが、依然として実権は有した。即位した何は死後に恵文王と[[諡]]されるので、この項でも以後は恵文王で通す。
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この時になり、名将[[廉頗]]・[[趙奢]]の両将が登場した事で度々秦に戦勝し、弟の平原君の活躍もあり、趙は安定した時代をむかえた。しかし、趙は恵文王の死後、[[長平の戦い]]で秦の[[白起]]に大敗し、一気に滅亡の道へと転がり落ちていく。
 
{{先代次代|[[趙 (戦国)|趙]]の君主|紀元前298297年 - 紀元前266年|[[武霊王]]|[[孝成王 (趙)|孝成王]]}}
 
{{DEFAULTSORT:けいふんおう}}