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|元首等年代始4 = 958年
|元首等年代終4 = [[971年]]
|元首等氏名4 = [[劉チョウ|後主]]
|変遷1 = [[唐]]より自立
|変遷年月日1 = [[909年]]
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即位した劉晟は帝位を争う弘雅、弘弼、弘道ら10人近くの弟たちを皆殺しにして帝位を安泰とし、更に北の[[楚 (十国)|楚]]の内乱に乗じて出兵し、連州、桂州等の領土を奪った。しかし外征の景気の良さとは裏腹に、劉晟は殺した弟たちの妻を自らの後宮に入れるなどの不品行が目立ち、更に功臣の劉思潮や陳道庠を殺し、政治を[[宦官]]に任せきりにするなど内部は腐敗していた。
 
劉晟は[[958年]]に死去し、長男の[[劉チョウ|劉{{lang|zh-tw|}}]]が後を継ぐが、劉{{lang|zh-tw|鋹}}は猜疑心が非常に強く、「官僚は家族や子孫を大事にするから信用できない、子孫を作れない者なら皇帝に忠義を尽くす」との考えで文官を殺し、代わりを全て[[宦官]]で埋めた。そのため劉{{lang|zh-tw|鋹}}の時代の南漢朝廷はほとんど宦官で占められる有様であった。
 
このような状態に人心は乖離し、[[971年]]の[[宋 (王朝)|宋]]の侵攻には全く抵抗し得ず、劉{{lang|zh-tw|鋹}}は財宝を10余隻の船に積み込んで逃亡しようとしたが、信任してきた宦官によって持ち逃げされ、宋軍の捕虜となり、その領土も宋によって併呑された。併呑時の南漢領は60州214県、戸数(今の世帯数)は170,263であった。
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# 殤帝・[[劉ヒン|劉{{lang|zh-tw|玢}}]](りゅう ひん、もとの名は弘度、[[920年]] - [[943年]]、在位:942年 - 943年)
# 中宗・[[劉晟]](りゅう せい、もとの名は弘熙、920年 - [[958年]]、在位:943年 - 958年)
# 後主・[[劉チョウ|劉{{lang|zh-tw|}}]](りゅう ちょう、もとの名は継興、943年 - [[980年]]、在位:958年 - [[971年]])
 
=== 系図 ===
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{{familytree|border=1 | A | | | | | | | B | | A=<sup>2</sup>'''殤帝[[劉ヒン|劉玢]]''' |B=<sup>3</sup>'''中宗[[劉晟]]'''}}
{{familytree|border=1 | | | | | | | | | | |!| | |}}
{{familytree|border=1 | | | | | | | | | | A | | A=<sup>4</sup>'''後主[[劉チョウ|劉鋹]]'''}}
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